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カテゴリ:読書案内「近・現代詩歌」
小澤實「芭蕉の風景」(ウェッジ)
裸にはまだ衣更着の嵐かな 芭蕉 と、まあ、こんなふうに案内を始めたのが二月の末でしたが、今日は、五月の三十日です。なんでそうなったのかというと、本書の中で、芭蕉のこの句について小澤實がこんな事を云って、この句の解説と鑑賞を始めていたからです。 芭蕉の弟子、支考が師の句文を収集した『笈の小文』という書には、掲出句についての芭蕉の「増賀の信をかなしむ」という言葉が記録されている。平安時代の高僧増賀の信仰心を愛おしむという意味である。増賀という僧を知らないと、掲出句は理解できない。芭蕉も愛読していた、鎌倉時代の仏教説話「撰集抄」冒頭にエピソードが載っている。(P208) ここを読んで、ボクはなにを始めたかというと、「撰集抄」を探し始めてしまったわけですね。 増賀上人って?、撰集抄って? というふうにウロウロして、書きかけの案内のことを忘れてしまったというわけで、3ヵ月後の今日にになって、ようやく、 ああ、そうだ! ということなので、悪しからずというわけです(笑)。 小澤實という人は「名句の所以」(毎日新聞社出版)という本で偶然、知りました。で、これまた偶然、市民図書館の新刊の棚で見つけたのが「芭蕉の風景 上」という、この本でした。松尾芭蕉の句の 風景を訪ねて、あれこれ語った上で、自分の句を読むという企画らしいですが、芭蕉とか知っているようで、実は、全く知らないくせに、高校生には知ったかをかましていた元国語教員には、斬鬼とかいう言葉を思い出させながらも、目から鱗というか、もっと早く出会いたかったと思う本でした。 目次を紹介すれば、こんなふうです。 目次 九十数句の句が表題になっていますが、まあ、それだけの場所を訪ねる旅の紀行文でもあるわけですし、参考句を入れれば二百句近い芭蕉の句、加えて、彼の周辺の俳人たち句の鑑賞にもなります。かなり、重厚な「蕉門俳諧」の教科書という趣でもあるわけです。 そうそう、忘れてはいけないことは、小澤實自身の旅先での句が、それぞれの旅の句として二句づつ読まれているわけで、例えば、 西行の庵もあらん花の庭 芭蕉 訪ねて、江戸の内藤露沾(ろせん)邸跡地の訪問が、上巻最後の旅なのですが、そこで詠まれている小澤實の句はこんなふうです。 閻魔坂くだりゆきたる椿かなと、まあ、そういう本なのですが、最初に引用した増賀上人にかかわる句の話の続きが気に掛かっていらっしゃると思うので引用します。 増賀上人は比叡山延暦寺の根本中堂に千夜籠もるという修業をした僧である。さらなる悟りを求めて、神宮に参詣する。神に祈って眠ったところ、夢に神が現れ「道心をおこそうと思ったら、自分の身を自分のものと思うな」というお告げを受ける。目覚めてから上人は「これは名利を捨てよということに違いない」と思って、来ていた衣を脱いで乞食にみな与えてしまった。下着も着けず、まったくの裸で、伊勢から帰り、修行していた比叡山に登る。 で、付け加えられるのが伊勢神宮の解説です。 明治の初めまで、僧は、宇治橋を渡り正殿の前で参拝することは許されなかった。僧が死の穢れに触れることが多いためであるという。芭蕉の「野ざらし紀行」には伊勢参宮の際、僧体であったため、神宮に入ることを拒まれたとことが明記されている。増賀も、西行も、五十鈴川を隔てて、正殿を拝することのできる高みにあった僧尼拝所から拝したらしい。その場所の存在を矢野憲一著「伊勢神宮」(角川書店)によって、帰宅後知った。同著によれば、現在、僧尼拝所のあった場所にはなにも残されていないというが、その位置から正殿を遠く拝してみたかった。芭蕉を訪ねる旅としても、神仏習合を考える旅としても必要だった。 で、最後にあるのが小澤實の二句です。 さざんかや増賀上人立ち走り 實 長くなりましたが、まあ、こういう本です。毎日、一句か二句、3ページか、4ページ、楽しみで読んできましたが、いよいよ、新たな予約者の出現で、市民図書館から返却せよとの連絡が来てしまいました(笑)。で、大慌て、大急ぎで案内しました。 上巻は返却しますが、小澤さんの旅はまだまだ続きます。そういうわけで、ボクは下巻を借り出すことになりそうです(笑)。 追記2023・05・30 「撰集抄」の「増賀上人」の説話です。宇治拾遺にもあったような気がします。 昔、増賀聖人といふ人いまそかりけり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.31 01:39:23
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