長谷川櫂「震災句集」(中央公論新社)
先だって「震災歌集」(中央公論新社)を案内した長谷川櫂の、まあ、いわば本業「震災句集」(中央公論新社)です。収められている百句ほどの句を、ボソボソ呟くように読んで、十句ほど選びました。あの年、みちのくの海辺に立ち尽くしていたかの長谷川櫂の姿
が浮かびました。二〇一一年新年
正月のくる道のある渚かな
古年は吹雪となって歩み去る
幾万の雛わだつみを漂へる 雛は雛人形
焼け焦げの原発ならぶ彼岸かな
天地変いのちのかぎり咲く桜
滅びゆく国のまほらに初蕨 「まほら」は「まほろば」
列なして歩む民あり死やかくもあまたの者を滅ぼさんとは ダンテ「神曲」
迎え火や海の底ゆく死者の列
怖ろしきものを見てゐる兎の目
からからと鬼の笑へる寒さかな
二〇一二年新年
龍の目の動くがごとく去年今年
みちのくや氷の闇に鳴く千鳥
鬼やらひ手負いの鬼の恐ろしき
巻末に「一年後」という、いわば、あとがきを載せておられます。「震災歌集」で、「俳人の私がなぜ短歌なのか」
という、自らに対する問いを発しておられた俳人による、答えの一文でしたが、この句集ができる成り行きが書かれている部分を引きます。
大震災ののち十日あまりすぎると、短歌は鳴りをひそめ、代わって俳句が生まれはじめた。しかし、「震災句集」をつくるのに一年近くかかったのは私の怠け心を別にすれば、俳句のもつ「悠然たる時間の流れ」を句集に映したかったからである。また句集の初めと終わりに二つの新年の句を置いたのもこれとかかわりがある。どんな悲惨な状況にあっても人間は食事もすれば恋もする。それと同じように古い年は去り、新しい年が来る。(P154)
俳句という表現形式が「悠然たる時間の流れ」に支えられるものだという長谷川櫂の俳句観が、妥当なものであるのか判断する見識はボクにはありませんが、短歌という表現が、どこかで語りたがっている主体を意識させる、まあ、よくもわるくも押しつけがましさを感じるのに対して、俳句という表現が詠んでいる人の存在以前に、フッと浮かんでくる場や時が浮かんでくるような気はしますね。
まあ、あてにならない感想ですが、同じ震災という事件を前にして、長谷川櫂がどんな場所にいたのか、「震災歌集」、「震災句集」という二つの表現集で、実に、正直にさらけ出していらっっしゃることに感動しますね。
句集とか歌集とか、とりあえず読むことには苦労しませんからね。いかがでしょう。
ちなみに、この句集も、ここの所いじっている池澤夏樹本に出てきた本です。