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カテゴリ:読書案内「現代の作家」
乗代雄介「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会) 乗代雄介という作家にはまっています。まあ、何が面白いのかよくわからないままなのですが、
とりあえずみんな読んでみようか!?というはまり方です。 というわけで、今回の読書案内は「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会)という評論集です。少し長めの評論が一つ、書評、創作をまとめた本です。具体的な内容は後ろに目次を貼りましたからそれをご覧ください。 案内するのは(まあ、案内になっていない木もしますが)表題の評論「掠れうる星たちの実験」です。 読む作品、読む作品、語り手や登場人物の配置について、かなり意識的な方法論に基づいて書いているんじゃないかと、まあ、読み手のボクに思わせる乗代雄介という作家の「小説」に対する、自分では「考え事」といっていますが、まあ、小説論というのは少し大げさかもしれませんが、ようするに「考え事」が書かれている50ページほどの論考です。 で、手に取って、まあ、最近は評論とか面倒なのですが、ついつい、読み続けたきっかけは、チョット、ボクには並べて考えるなんて、とても思いつきそうもない二人の人物を引っ張り出してきて「考え事」を始めていたからです。 二人とは、「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーと「遠野物語」の柳田國男でした。まず、この取り合わせが面白いと思いませんか? このお二人が、乗代雄介の「考え事」に呼び出されていると聞いて、「語り」と「記述」、「書きことば」と「話ことば」、まあ、そのあたりを思い浮かべられた方は、なかなか、鋭いと思います。 で、書き出しあたりに、乗代雄介はこんなことをいっています まずは「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンが、子供の頃エイグルティンガー先生に土曜日ごとに連れていかれた自然科学博物館について述懐する場面を見てみたい。ペアを組んだ女の子の汗ばんだ手、守衛の注意から、インディアンやエスキモー、鹿や南に渡っていく鳥の剥製を並べたジオラマ展示について詳述された後で「でも、この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ」とホールデンは語る。「何一つ変わらないんだ。変わるのはただこっちのほうさ」と続け、さらに変わるとは厳密にいえば「こっちが年をとる」ようなことではないと注釈をくわえている。(P11) 作家の考え事は、「変わること」と「変わらないこと」に焦点をあてて進みそうなのですが、続けて作家が引用したのは、下のような二つの文章でした。 こっちがいつも同じではないという、それだけのことなんだ。オーバーを着てるときがあったり、あるいはこのまえ組になった子が猩紅熱になって、今度は別な子と組になってたり、あるいはまた、エイグルティンガー先生に故障があって代わりの先生に引率されてたり、両親がバスルームですごい夫婦喧嘩をやったのを聞かされた後だったり、道路の水たまりにガソリンの虹が浮かんでくるとこを通ってきたばかりであったり。要するにどこか違ってるんだ―うまく説明できないけどさ。いや、かりにできるとしても、説明する気になるかどうかわかんないな。(「ライ麦畑でつかまえて」サリンジャー) 乗代雄介はサリンジャーがホールデン少年に 「説明する気になるかどうかわかんないな。」 と言わせていることの、小説の書き手にとっての問題について考えてみようとしているわけですが、それがどういう結論にたどりつくのか、あるいは、たどり着かないのか、そのあたりは、この論考をお読みいただくほかはないわけですが、この「考え事」の題としている「掠れうる星たち」を暗示する二つの引用で論をとじています。 「自分だけで心の中に、星は何かの機会さえあれば、白昼でも見えるものと考えていた。」(柳田國男「幻覚の実験」) 最近、ボクが、小説とか読んだり、映画とかを見ながら、引っかかっているのは、読んだり見たりしているボクが、それぞれの作品のどこに「ホントウノコト」を感じているのか、わけがわからないと思いながら、そのわけのわからなさに惹かれるのは何故か、そこにぼく自身が何を見たり、読んだりしているのか、まあ、そういうことで、できれば、それをちょっと言葉に出来ればいいのですが、「涙がとまりません」とか、「笑えました」とかいういい方でしか言葉にできないことを訝しく思っているのですが、乗代雄介という作家が、どうも、そのあたりのことにこだわって小説を書こうとしているようだと思わせる「考え事」でした。 要をえない案内ですが、ボクには、かなり面白い考え事でしたよ。で、本書の目次を貼っていきます。興味がわいたら、図書館へどうぞ(笑)。 目次
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最終更新日
2024.05.20 23:44:13
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