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カテゴリ:神我顕現
聖書に「新しき酒は新しき革袋に入れよ」と書かれています。
これはどういう意味なんだろう・・・ 最近の私はいつも真理に関係する本を読むたびに疑問を持つようになりました。 「これはどういう意味なんだろう」 「どういう真理が隠されているのだろう」 そして、我が神我に質問し問いかけるのです。 これは自答自問という方法です。 知花先生もこれをずっと続けていって、神我から答えを導き出せるようになったそうです。 でも今のしずくの段階では、まだ神我から直接に答えを引き出せる段階までには至っていません。 インスピレーションとしてひらめくことは多くなりましたが、でもまだまだです。 自分で答えを導き出せない時はその答えは外部からもたらされます。 さて、本題に話を戻します。 これはずばり、今まで私達が真実だと思って取り入れてきたすべての概念・観念です。 しきたりや風習、あやまった信仰等すべてであり特に霊性に関することが大きいです。 イエスさまは、真理を人々に蘇らせて、真理を新しい酒に例えられたのです。 私も知花先生に出会う前までは、神社によく参拝していました。 神社には神霊様がいらっしゃる・・・・ 私もあるときまでは、そう思っていました。 でも、あるとき参拝していて気づいた、いや感じたのです。 ご本殿にも神社の境内にも神霊のエネルギー・波動が一切感じられないことを・・・ それはそのときだけではなく、いつもそうでした。 当時の私はまだ、ご神事を行っていた時期で呼ばれたときに参拝するとそこにいらっしゃいました。 それからは、神社に行っても神様はいないというのが私の常識となりました。 聖書の中にこう書かれています。 「人の手にて作りたもうた中に、神は宿らず」です。 それは仏像やキリスト・マリア像や神社・仏閣・教会等のことです。 知花先生もおっしゃっています。 多くの人々は、神が大生命であり、大霊であり、普遍であり、無限であるという 根本的な理解を欠いている。 多くの宗教が神棚や神殿を祭り、水や果物などの捧げ物を供えローソクに火を灯す。 自分では水も飲めない、果物も食べられない、光を発することもできないようなものが 神ではない。 自ら造った人間から物を捧げられることを求めるのは乞食神であり 人間が考え出したままごと遊びの神にすぎない、まがいものにすぎない。 それを拝んでも何も意味がない。 真実の神は、休むことなく人の中で働いておられる。 人の肉体の中だけでなく、全宇宙のすべての生命あるもののなかに働いておられる。 見えるもの、見えないもののなかに生きて働いておられる。 人の肉体のなかに今、働いておられるもっとも身近な神を信じないで、 祭壇や雲の彼方に神を求めてはならない。 イエスは「神を外に求むるなかれ。神は汝の手よりも足よりも近し」といわれている。 人は神を誤解し、いつまで祭壇の前にぬかづき、盲信・狂信を続けるのだろう・・・ この真理は一番最初に気づかされ、いかにしずくが神を誤解していたかを知らされました どうりで、神社のご本殿には神様はいらっしゃらないわけだ これから、しずくと一緒に古い酒を捨て新しい酒を入れる作業をしていきませんか 真理は頭で理解しようとしても、内容がで判らないそうです。 ハートで魂で真理を聞いていくことが大切なんだそうです。 頭で理解するのは知識であり、真理とはいえない・・・ 前にも書かせて頂きましたが、このブログはハートとハートのキャッチボールです みなさんのハートに少しでも伝わるものがあったら、うれしいです 本日も、このブログをご訪問してくださったみなさま、ありがとうございます 全ては大生命に満ちあふれているなり・・・ 我も大生命なり・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年04月29日 13時40分00秒
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