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カテゴリ:詩・歌・小説
「俳諧」とは、「俳諧の連歌」の略で、中世に栄えた連歌から派生したもので、中でも即興と機知をもとにした自由で庶民的なものが、貴族的和歌的な連歌から独立したもの。 俳諧という言葉はこっけいを意味し、室町時代末期の俳諧は、その奔放なこっけいを生命にしていた。 そうした流れを受けて近世俳諧の幕開けに位置し、以後の俳諧流行の地ならしをしたのが、松永貞徳で、古典的な教養も深かった貞徳は京都の住人で、温厚な人柄が人望を集め、新興文学の俳諧の指導者として、この様式の整備と確立に尽力した。 貞徳に率いられた一門を、貞門といい、全国的な大勢力となった。 最初の俳諧集は「犬子集」といい、貞徳は俳諧を分かり易く解説し、普及に努めた。 花よりも団子がありて帰雁 貞徳 談林は、貞門が飽きられ始めた頃、新しい勢力として興った、西山宗因を中心とした談林派である。 貞門が連歌によって俳諧を文学として認知させようとしたのに対し、談林は権威から徹底して自由であろうとした。 奔放奇抜さが好まれ、門下の西鶴や菅野谷高政などが活躍した。 西鶴は、限られた時間内に俳句をよりたくさん作るのを競う矢数俳諧を得意とし、俳諧の遊戯化を促進した。 松尾芭蕉 古池や かわず飛び込む水の音 伊賀上野に生まれた芭蕉は、藩主の一族藤堂義忠に仕え、主君共々北村季吟の門人とし貞門の俳諧を学んだ。 主君の没後、故郷を捨て江戸へやってきた。 江戸では談林俳諧の影響を強く受け、日本橋で俳諧宗匠として暮し始めたが、喧騒を嫌って深川に庵を構え、風雅に沈潜した日々を送った。 弟子が芭蕉の木を庭に植えると、その木がすくすく育ったので、芭蕉庵と名付け、自らも芭蕉を名乗るようになった。 芭蕉の俳風は蕉風と呼ばれ、寂び、しおり、ほそみなどの言葉で説明されるように、閑寂、高雅な句境を実現しようとした。 しかし、芭蕉の俳風は生涯一定していたのではなく、初期には談林調の遊戯的句や、「虚栗(みなしぐり」」にみられる顕著な漢詩文調の句を喜んだ時期もあり、晩年には「炭俵(すみだわら)」に見られる軽みの句を目指した。 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.04.26 08:09:11
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