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カテゴリ:心理学と神秘学
ペラルゴニウム アッラーの神も唯一神である。 全知全能の神であって、創造主であり、支配者でもある。 人間はアッラーの被造物であり、人間側から神の本質を論じたり、像を作ることは禁じられている。 礼拝堂(モスク)の中にも像はないので、仏教寺院やキリスト教会に比べると、モスクはガランとしている。 アッラーも、ヤハヴェと同じく人間に契約を迫った。 また、裁きの神でもあり、「最後の審判の日、どの魂も自分の所業を知るであろう、したことも、し残したことも、誰もが他人の面倒など見てやることができない日、その日こそ、すべての主権はアッラーのみ手にあるのだ」と言う。 審判に際しては、血縁の力も夫婦の愛も、どんな絆も無力であり、あらゆる審判の主権はアッラーにある。 神の前には人間は単独の者として、強い信仰と緊張感が要求される。 神と、一人の人間との間の関係がすべてなのだ。 これが契約宗教の特色で、ユダヤ教、キリスト教の世界でも同じであり、過酷な砂漠の中では、容易に人間や自然物を信じることができなかったのだ。 水と緑に恵まれた環境から生まれた神道などとはここに差がある。 現在の日本人の心が荒廃してきたのは、その根本にあった自然が破壊されたからではないか。 マホメトが出現する以前には、自然を崇拝する信仰があったようだが、彼によってアラビア地方をイスラム教が席巻した。 一神教の世界では、唯一神を信じるか、信じないか、その神と契約するか、しないか、神に救済を求めるか、それとも自然を信じるかの二者択一だけなのである。 常にそのどちらかに決めなければならない。 正しいものは一つしかないのだ。 中間の立場に立つことは優柔不断であり、消極的であり、信念がないことになる。 彼らにとっての思いやりとは、自分の信仰や信念を相手に解らせ、納得させることなのだ。 日本人には、強引な押し付けとしか思えない。 日本人にとっては、人それぞれ考えがあり、信仰があり、信念があるのだから、無理に他人の心へ踏み込まないのが思いやりというもの。 だから、イエス、ノーだけで即答しろと言われても困ってしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.05.06 08:02:28
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