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カテゴリ:郷土の歴史
半田山に登山 半田山 (標高863m)、半田銀山として江戸時代には大いに栄え、中腹の半田沼は多くの伝説に包まれ、歴史と伝説に彩られた半田山。この山は半田沼を起点に周回できるコースが人気だ。 登り口からまもなく歩いていたら掲示板が目に入ったのです。 半田山は標高863.1メートル(半田沼は標高419メートル)に位置し、福島市や国見町、宮城県白石市と接しています。桑折駅とは標高約760メートルの差があり気象条件も違い、温度は5度から7度違うこともあり、夏も涼しくすごしやすいです 福島県中通り地方の北端、宮城県との県境近くに位置する。桑折町のシンボル的存在で、江戸時代に銀山として最盛期にあった山。残念ながら昭和26年には閉山している。 2016/04/18 半田山登山 約8年前の山行です。 篠塚藩(しのづかはん)は、上野邑楽郡篠塚村(現在の群馬県邑楽郡邑楽町)に存在した藩。居館は篠塚陣屋。延享4年(1747年)7月、陸奥桑折藩主であった松平忠恒が、陸奥伊達郡など1万2250石ほどの所領を上野国に移され、邑楽郡篠塚村に陣屋を構えたことから立藩した。表高は2万石である。翌年8月、忠恒は所領を碓氷郡などに移されたため、上里見藩として存続することとなり、篠塚藩は短期間で廃藩となった。 陸奥桑折藩は、1700年(元禄13年) - 白河新田藩主、奥平忠尚が2万石で入封以後3代続き上野国篠塚藩へ転封。 桑折藩(こおりはん)は、江戸時代の無城の藩の一つである。現在の福島県伊達郡桑折町に陣屋を置いた。藩主は奥平氏系の松平家(奥平松平家)で、徳川家康の女婿・奥平信昌の孫・松平忠弘の養子となった松平忠尚を藩祖とする。家格は帝鑑間詰譜代大名。有望な実子の無い忠弘に直系の孫忠雅が生まれたため、元禄元年(1688年)、養子の忠尚に新田分2万石(白河新田藩)が分与されたのが本藩の始まりである。その後、本家の福山転封に伴い、桑折の地に独自の陣屋(桑折陣屋)を置いて桑折藩としての統治を開始した。松平忠恒の代の延享4年(1747年)に上野篠塚に転封となり、桑折藩は廃藩となった。忠恒は短期間に篠塚・上里見・小幡と上野国内を転々とするが、最終的に小幡の地に落ち着いて明治維新まで続いた。その後、この地は幕府領となり、桑折には幕府の代官所が置かれた。 転封(てんぽう)とは、 豊臣秀吉・江戸幕府によって行われた大名の配置替えのこと。国替(くにがえ)・移封(いほう)ともいう。大名移動の際,家臣団は随伴するが,百姓は移動せず,兵農分離を促進させ,大名・家臣団の在地性が払拭された。江戸幕府は転封を改易とともに大名統制策の基本とし,家康・秀忠・家光の徳川初期3代の将軍の時代に盛んに行われた。この時代は外様大名を改易して無主となった地に徳川一門・譜代大名を配置するかたちが主で,当初は関東・東海地方を中心としたが,漸次全国に拡大され,寛永(1624年―1644年)ころには徳川氏を中心とする新しい領国体制が完成した。その後は転封は減少し,特定譜代藩による交換転封形式が主なものであった。転封の際,領地・城の受渡しには幕府上使が派遣され,城内諸道具の処置,支配帳簿・先納貢租の交換など細かい手続を必要とした。 お殿様の人事移動 きっと理不尽な人事移動と云う事も多々あったであろう。なにぶん人事移動を発動できる人事権ある人には逆らえないわけです。天からの命令に等しく従うしかない明確な上下関係であるわけです。 ※ 【改易】かいえき 江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収するもの。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。 御家取り潰しと改易って何が違うんですか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024/03/20 09:30:53 AM
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