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カテゴリ:里山での読書
自死に追い込まれた人たち 今朝、浪江から避難していた人が一時帰宅して自宅の倉庫で自殺したという報道をきいた。福島県下だけで地震と原発事故による何人目の犠牲者だろう。 今、「いのちの電話 福島」主催の公開講座に参加している。電話相談員養成の前置き的な講座だが、自殺を思う人の余りに重たい心の揺らぎを考えたとき、自分がそうした相談に正面から向かい合うことはとてもできるとは思えない。全国で年間3万人を超える自殺者がいると新聞で読んだことがある。何とも痛ましい。何故、人は死を選択するのだろう。それを知りたいと思った。 江藤淳の『妻と私』を読んだ。江藤淳については村上龍が『限りなき透明に近いブルー』(1976年)で芥川賞を受賞した時に確か「トータルカルチャーとサブカルチャー」という切り口で受賞作はサブカルチャーでしかないという解りやすい、スカッとした酷評に共感したことを憶えている。ところが、それから二十何年後だろうか、江藤淳が自死したということをニュースで知った。あれだけしっかりとモノいう人、世論に安く迎合しない文言批評家でも自死を選ぶのかと何か鮮烈な印象が残った。 今回の公開講座を聴講するにあたって江藤淳の自死について思い出し、晩年の作品『妻と私』を読んでみたいと思った。同じような辛い体験をし、苦しみ、悶えた人、その中で、ある人は自死の淵に追い込まれ、ある人はとどまる。この違いは何なのだろう。 『妻と私』の中の 「いったん死の時間に深く浸り、そこに一人残されてまだ生きている人間ほど、絶望的なものはない。家内の生命が尽きていない限りは、命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向かって刻一刻と私を追い込んでいくのである」 という一節に、江藤にとって長年連れ添った最愛の人の喪失感がいかばかりであったかを知ることができる。正直、体験してみないと窺い知ることができないくらい、何とも大きいなことであったに相違ないと思う。 だが、この喪失感だけで人は自死に追い込まれるものだろうか。それプラス何かがあって、複合的な要因が自死にいざなうのだろうか。その辺りを知りたい。手がかりになるかどうかわからないが、『江藤淳という人』(新潮社 福田和也) 『江藤淳』(慶応義塾大学出版会 田中和生) を読み始めた。『幼年時代』(文芸春秋 江藤淳)を図書館に予約した。これが一番が核心に触れているような気がする。次回4回目の公開講座は、高齢者と日々、接している特別養護老人ホームの施設長が講師だ。何かヒントを得ることができるかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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