焚書坑儒は、未だに存在しているのだろうか…?
ある情報サイトによるととうとう米のキリスト教牧師が、コーランを燃やしてしまったらしい。これが、若者がやったというならまだ、問題は軽いが燃やしたのが牧師ということになると話は違ってくる。このまま世界大戦ということになったらこの牧師はどうするつもりだろう?まぁ、コーランを燃やしただけで戦争は起きないとは思いたいがテロの戦う理由を増やしてしまったことは間違いない。そもそも聖職者が、なぜこのようなキチガイ地味たことをするのか?神に仕える身で、この行動は可笑しいとは思わないのだろうか?キリスト教では、汝隣人を愛せよとある。だが、キリスト教の布教時代を聖書などで読むと愛するべき対象は、罪人や改宗の見込みのある一般人でありパリサイ人などは、猛烈に批判していた。キリスト教の悪いと思える所は自分達の信じている宗教以外は邪教扱いする所である。一神教には、このタイプが多い。それを抜きにして考えてもコーランを燃やすということは自分が一番大切にしているものを燃やされたということである。普通に考えれば、やっと小遣いを貯めて買ったおもちゃなどを、燃やされたとしたらどれだけ相手に打撃を与えるかを考えるべきである。人間失格のこの行為を、仮にも聖職者が…日本はその点、非常に気が楽である。何教を信じても自由であるし祝い事などでは、どの神様でも大喜び。宗教紛争などは、ほぼ起こらない。まぁ、新興宗教が、問題を起こすことはあるにしても。多神教を超えた、このカオスっぷりは日本人の美徳でもあると思う。何故人を助ける宗教で人間が争う必要があるのか?人間を幸せにしてくれるのが宗教ではないのか?あの人はキリスト教、私は仏教。これで良いではないか?それでも信者を増やしたかったら、自分の信じている宗教の良い所を布教すればいいだけである。強制的に加入などは、冗談ではない。宗教に限らず、物事には必ず良い面と悪い面がある。他の宗教を信じているのが邪教徒ではなく狂信者が、邪教徒ではないだろうか?宗教にのめりこみ過ぎて普通の感覚ではなくなること。これが宗教の欠点である。信仰は、人を助けるものであって人を殺めるための道具ではない。今回の事件は、大変痛ましい事件だ。テロ行為は許されがたいものであるがそのきっかけを、自分達が作ってしまっているということに気づく必要があるのではないだろうか?