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2021.08.09
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カテゴリ:所感
長崎原爆忌。
今日の長崎市は、台風9号の影響で午前4時頃まで雨模様となっていた。
午前11時現在、アメダス長崎の気温29.3度C、西の風6m/秒。

戦争末期の1945(昭和20)年8月09日(木曜日)午前11時02分、アメリカ軍の爆撃機B-29は長崎市に対して原子爆弾「ファットマン」を投下した。
この原子爆弾はプルトニウム239を材料として製造され、長崎市松山町上空500m付近で炸裂。
TNT火薬換算では22キロトン相当(広島原爆の1.5倍)。
原子爆弾は人類史上において2回目、かつ実戦で使用された最後の核兵器である。
当時のアメリカ大統領は第33代の「ハリー・S・トルーマン」、後に2つの原爆を投下したことに関して「トルーマンの狂気」と呼ばれている。

当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。
周囲が山に囲まれている地形上の特徴から広島原爆の被害よりも少ない、と推定される。
原爆死没者名簿に記された総数は18万9,163人。
今日の慰霊式では、92歳の被爆者代表「岡信子さん」が「平和への誓い」を読み上げた。
被爆当時、看護専門学校生だった岡さんは爆心地から約1.8kmの実家で被爆、ガラス片が肩や足に刺さる大けがを負った。
しかし、被爆者の救護所になっていた新興善国民学校に動員された。
救護所は凄惨を極めたが、痛む足をかばって不眠不休で働き続けた。
岡さんは今年、「原爆の恐ろしさを伝えるためにここまで生かされた」という強い使命感から、90歳を超えて初めて被爆者代表に応募。
平和への誓いで地獄絵図のようだった被爆直後の長崎を振り返り、核兵器廃絶に向けた強い思いを語った。
最後に、「私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います」、と述べられた。

 撮影 2021年08月08日14時40分 1/160 F8.0 ISO80
    長岡市内 自宅付近の道路端から





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Last updated  2021.08.09 21:17:40
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