実はこれが好きシリーズ その6~立花宗茂・ギン(門構えに言)千代夫妻~
なんだか久しぶりの更新です。今回のテーマはこれまた久しぶりの実はこれが好きシリーズ。第6回目に当たる今回は、立花宗茂・ギン(門構えに言。吟千代とすることもあるので、以下吟千代と記述)千代夫妻について。吟千代(ぎんちよ)は九州の大友氏きっての猛将と謳われた立花道雪の一人娘で、6歳の時家督を譲られ、立花家の当主となります。女性が正式に当主となった例は珍しく、その頃から随分と話題になっていたそうです。夫の立花宗茂(立花左近将監源矢七郎宗茂)と彼女が結婚したのは宗茂(当時は統虎)15歳、吟千代13歳の時です。九州でも有数の名将として知られる道雪ですが、彼は息子がいないことから随分と悩んでいたそうです。ところが、彼の前に幼い自分の娘より2つ年上の少年が現れます。彼の盟友(親子同然のつきあいであったとも言われています)である高橋紹運の長男千熊丸です。道雪は彼に惚れ込み、千熊丸が元服するやいなや紹運に頼み込んで強引に婿養子にしてしまったというエピソードがあります。幼少期より完全に目をつけていたようで、千熊丸が自らの居城に遊びに来るたびに、立派な武士になるように指導をしていて、自らの後継者にするつもりだったそうです。ところが、当の宗茂と吟千代は両者とも気性が激しい上に気位が高く、そのように似たような性格であった所為か不仲であり、道雪死後別居してしまった・・・というのが通説です。私も最近まではそう思っておりました。しかしながら、ある話を目にしたことで、評価を一変させ、なおかつこの二人が大好きになってしまったのです。その話とは、吟千代の別居の件について。そもそも彼女が別居に踏み切ったのは1599年のこと(彼らの結婚は1581年、道雪の没年は1585年、実に道雪死後の方が長い時間を共に過ごしています)らしいのですが、元々二人の間には子どもがおらず、世継ぎを残す為に宗茂が側室を迎えたことが原因らしいのです。その翌年関ヶ原で統虎属する西軍は敗れ、立花家もお取りつぶしとなってしまうのですが、別居中の吟千代は夫が再び世に出ることを神仏に願い続け、その為か食も細くなって、その2年後の1602年に34歳で病死してしまうのです。統虎改め宗茂(宗茂という名前は晩年の名乗りですが)もその後幾人もの側室を迎えるものの、結局子どもは産まれず、甥を養子に迎えて後継者としています。そう、二人が「不仲」故に子どもがいなかったわけでも、別居したわけでもない可能性が出て来たのです。結果として宗茂に子どもが産まれなかった以上、吟千代との仲に責任の全てを課すわけにはいきませんまた、肝心の別居にしても、側室を迎えたことによって自身のプライドを傷つけられたからという説が存在している程ですし、彼らは周囲が思うほど「不仲」ではなかったのかも知れないのです。まして、彼らは幼なじみでもあります。お互いの気心は十分過ぎるほどに知っていたのではないでしょうか。もう一歩踏み込んで妄想するならば、彼らは常に自身の気位とお互いへの想いの間で揺れていたのではないでしょうか。特に吟千代の立場に立つならば、統虎を独占したいのにもかかわらず、現実はそれを赦さなかったとも取れるのです。彼女は結果として自身の気位を優先させてしまいますが、それでも相手を想う気持ちは変わらず、再び彼が世に出ることのみを願い続けて、相手が傍にいない寂しさの中で、憂悶の内に死去したのではないか。そんないじましくすらある一面があると、私には感じられるのです。宗茂も宗茂で、晩年に元の領地に返り咲いた際、数十年前に死去した吟千代を弔う為にお寺を建立していますし。もしも彼らが別の時代、あるいは別の立場で夫婦となっていれば、喧嘩が絶えないながらも仲睦まじい二人でいられたのではないか。そんなことを考えてしまいます。最後に1つ、関ヶ原敗戦直後のエピソードをご紹介して、筆を置きたいと思います。吟千代は国元で自ら甲冑を纏って街道を警備していたのですが、西軍敗戦の報を聞くと、家臣達数十名に命じて、領土の外まで統虎を出迎えさせた、と。