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カテゴリ:武田信玄上洛の道。
改定・武田源氏の野望 (1) (信虎の決断) 甲斐武田家の居館、躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)は甲府盆地の北端に 位置し、三方を山に囲まれた古府中(こふちゅう)と呼ばれる要衝の地にあった。 周囲は堀を含めて東西約200メートル、南北約190メートル、面積は約1.4万 坪と推定され、外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で中世式の武家館である。 永正十六年に歴代の川田館から、この地に居館を移したのは武田家十六代 の現国主、信虎(のぶとら)の時代であった。 容貌魁偉な武将であり、激昂すると残虐酷薄な行動をなす国主であった。 彼は十四才で家督を継ぎ、戦乱に明け暮れた甲斐を統一し戦国大名へと変貌 をとげ、今は信濃攻略を策していた。これだけでも信虎の力量のほどが知れる。 館の三十畳ほどの板の間の主殿の一段高まった座所に円座を敷き、信虎は 小姓の酌で大杯をあおっている。 漆黒の庭から、かしましく蝉時雨の音が聞こえている。 「蒸すのう」 と野太い声で不快感を発した。 夏を迎えると山国の甲斐も暑い、盆地のせいか風が全く主殿に届かない。 異常に後頭部のふくらみが目立つ武将で顔の造作が全て大きい。 彼は己の限界を悟りはじめ、武田家の存続を深刻に考えるようになっていた。 親に似ぬ子は鬼子というが、嫡男の晴信(はるのぶ)は余りにも己に似ている。 非凡な才能は認めるが、それが忌々しいのだ。 これが先刻から信虎を悩ませ不機嫌にさせていた。 「酒をもて」 吠えるような声で命じ後ろをふり向いた。 そこには武田家の家宝の日の丸の御旗(みはた)と、武田源氏の始祖、 新羅三郎義光の鎧、いわゆる縦無(たてな)しと諏訪法性の御旗が視線の 先に仄かに見えた。 これが武田家累代の家宝であり、絶対に従わなくてはならない神聖なもの とされていた。 義光の着用した鎧が輝き、南無諏方南宮法性上下大明神の御旗が揺らめ いて見える。矢張り家督は晴信に譲るべきか、信虎は先刻から大杯をあおりな がらこの一点を考え続けていたのだ。己に似ぬが故に次男の信繁(のぶしげ)を 偏愛し、どうしても晴信を愛せないでいたのだ。 晴信が傲慢だとか己に反抗するなら判るが、晴信は微塵もそんな気配を見せ ない。常に己に似た顔付ながらも、眸子は涼やかな若武者であった。 四十三才となった己が、何時まで国主の座を保てるかも不安であった。 「ご先祖さま、お答えをお聞かせ下されませ」 珍しく信虎が深々と頭(こうべ)をたれた。 「器量で選ぶのじゃ」 尊厳な声が聞こえたように感じられ、思わず床に手をついた。 「御屋形さま」 戻った小姓の源四郎が驚きの声をあげた、かってこのような主人の姿を見た 事がなかったのだ。 「源四郎、他言は無用じゃ」 信虎が照れ笑いを浮かべ座所に据わりなおした。 源四郎が信虎の大杯を満たした。肝っ玉の据わった顔つきの小姓である。 「源四郎、そちは晴信と信繁とどちらが好きじゃ」 「お答えできませぬ、お二人とも好きでございますから」 「答えられぬか、わしは二人のどちらかに家督を譲ろうと思案しておる」 「それなれば源四郎もお答えできます」 「できるか?」 小童めが何を言うか、信虎の魁偉な容貌に興味の色が刷かれた。 「はい、なれど御屋形さまはお怒りになられましょう」 源四郎が信虎を恐る恐るながめ、云いよどんでいる。 「なんでわしが怒らねばならぬ」 信虎が不審そうな顔付で訊ねた。 「御屋形さまは、ご嫡男の晴信さまがお嫌いと聞いております」 「なにっー」 信虎は息を飲んだ。思わず怒りが湧きあがり傍らの大刀を手にした、 愛刀は備前兼光三尺余の大業物である。 「わっー」 と源四郎が主殿から飛び出し、廊下より信虎を盗みみている。 「小童がなにをほざく」 「御屋形さまは怒らぬと申されましたぞ」 源四郎が油断のない顔つきで叫び声をあげた。この源四郎は武田家重臣の 飯富兵部(おぶひょうぶ)の実弟である。信虎が苦笑を浮かべた。 「源四郎、誰がそのような噂話を申しておる」 「御屋形さまはお知りに成られませぬが、皆さまが申しておられます」 「・・・」 信虎は声を失った、わしは家中の者たちにこのように見られ ていたのか。 たしかに次男の信繁に家督を譲ろうと考えていたが、武将としての力量は 晴信が一歩も二歩も優れている、これは信虎も認めるところであった。 四年前に晴信は元服した。天文五年(一五三六年)正月であった。七月には 将軍、足利義晴の斡旋で公卿の三条公頼(きんより)の次女(三条夫人)を正室と して迎えていた。 この年の十一月に信虎は、精兵八千名を率い佐久郡の海ノ口城を囲んだ。 ここを陥とせば穀倉地帯の佐久郡が手に入る。海ノ口城の城将は七十人力と 云われる怪力無双の平賀源心であった。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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