【持論】
この持論は、私自身が、25年の人生に於いて体感して学んだできたこと。私の持論が正しいものだとか、私がヒトよりも勝っているとか、そんな、自己満足的かつ浅はかな理由で、記載しているのではない。今の私は、何かを、罵倒しているのでもなく、攻めているのでもなく、追い詰めているのでもなく、取り巻く環境に対して、現実、事実を述べているに過ぎない。はっきり、言って、議論しようなどと思っても居ない。これから記載する事項は私の現状に置いて、冷静かつ客観的に分析した結果導き出された持論である。繰り返すが、前提として、私の見解が良いとか悪いとかでは、ない。物事には適材適所があり、すべては、バランス感覚だと思う。どこにどの理論が合致するかによって、その理論によって「結果」を導き出せた時、初めてその理論は「正論」となる。よって、結果がない理論は、仮説に過ぎず、良いとか悪いとか、正しいとか、間違いだとか、ジャッチするまでもない。「~たら、~れば」という理想論に過ぎない。現実を捉えるためには、冷静かつ客観的に現実を分析した時、ありのままを、フィルターを通さず、描写できれば、正しい問題定義が浮かび上がってくる。そして、より至難の業を要するのはそれらの問題定義を踏まえて解決(=結果)に行き着く過程の方法論を構築していくこと。この所、「問題」を”点”として、「過程」を”線”「結果」を”和(○)”だと仮説を立てて、物事を考える。和(○)についての定義は、正直、もう少し書き記したい所だが、この場に於いては、”結果”や”成果””解決”などとしておく。点在して、存在する、各、”点(問題)”が見えていない場合方向性を見失い、”線(過程)”が絡まりあう。結果、その”線(過程)”はいつになっても”和(○)”「結果」になることはない。グルグル、グルグル堂々巡り。さらに、気づかずに、長い年月を要していると絡み合った”線(過程)”の複雑化は年月と比例するように加速しそこに前提としてあったはずの”点(問題)”すら見えなくなる。今私に在る、問題は、すでに、上記の状況にある。本来の問題すら、理解できていない環境の中現実を直視せずに、不平、不満、偽り、理想的理論を振り飾す。本末転倒、本来の問題すら見えていない者だらけである。私は、その違和感だらけの現状に問題定義を投げかけたに過ぎない。”結果”(=和)”を求めるか、求めないか。極論、それだけのこと、だ。そして、正直求める、求めないの賛同など、どうでもいい。時に人は求める”結果(=和)”のためにどうしても、やらなければいけない事がある。誰に何と言われようが、結果を導いたものこそが、その過程を声を大にして正論だ、と言える。クドイようだが、結果という証拠があるからだ。私は、苦しみを知り、痛みを知り、迷い、知ったことがある。生きるか、死ぬかの時、過程よりも、最大限生きた結果である、と。まっすぐに胸を張って生きたい。幸せに生きていくことは、日々幸せという「結果」”和(○)”に向かって、そのための、「過程」”線”を結び続けること。「過程」”線”を繋ぐための妨げとなる「問題」”点”を捉えながら。そうして、「結果」”和(○)”を広げて、幸せの「結果」”和(○)”を連鎖させていく。この持論を極論化すれば世界平和やすべては、ひとつなのだ。などという理想的理論に近しいものに行き着くかもしれない。しかし最大は最小であり最小は最大であるという、年長者からの格言から推測するにすべては、表裏一体でありそんな大それた、理想的理論を掲げなくとも日々、最小を正しく見ていればよいのだと思う。私は、この持論が正論なのか知りたい、、、のでもなく、この持論を誰かに偉そうに語らいたい、、、のでもなく、ただ、結果が欲しいだけ。ただ、単純なこと。私の追い求める結果、「幸せになりたい。」ただ、それだけのこと。きっと、誰もが同じ。