テーマ:"あすの日本を考える"(493)
カテゴリ:理屈っぽい時間・・・
年の瀬が近づくと、毎年、どこかのテレビ局のどこかの時間帯で必ず、忠臣蔵の時代劇ドラマが放送されたりして、その度に大石内蔵助や赤穂四十七士の物語を目にする。 けれども、テレビで観る忠臣蔵は、元々は芝居のネタをコピーしたシナリオで、社会秩序が整備された元禄時代に起きた事件が実際はどんなものだったのかは余り正確に伝わっていない気がするんだ。 資料の多い割には、未だに解明されていない未知の部分も残されてて、歴史的には興味深いと思う。 それは、元禄14年(1704)のこと。 当時は朝廷への新年の挨拶に将軍家から使いが京へ上り、その返礼として天皇や上皇の勅使や院使が江戸へ下るのが慣例となっていた。 この江戸城で勅使一行を迎える一連の式典は、朝廷の古いしきたりに従って行われていたため、勅使をもてなす接待係として"御馳走役"を命じられた諸大名は、粗相のないようにと様々な事に気を使い、役目を果たすまでは大変苦労を強いられたんだ。 折りしも、元禄14年の正月に将軍家の使いを果たしたのが高家の吉良家。 そして、勅使をもてなす役を仰せつかったのが赤穂三代藩主 浅野内匠頭長矩だった。 内匠頭(たくみのかみ)は、若干17歳の折にもこの大役を無事に果たしていたが、何か違いなどがあってはならないと、助言を得るため家臣に命じて吉良上野介義央を訪問させていた。 浅野家の家臣からは、このお役目に際しては、吉良上野介に先に贈り物などをする方が良いのではと内匠頭に上申した者もた。 だけど、内匠頭としてはお役目も済まないうちに贈り物をするのは心苦しいと、家臣の意見を退けて事を進めたため、吉良上野介の機嫌を損ねたともいわれている。 ともあれ、嫌味をいわれたり意地悪をされながらも、個々の行事も順調に進行し、将軍から勅使へのお返しの品を送り、御馳走役の役目をもう少しで終えるところだったんだ。 つづく... 忠臣蔵は、忠義だとか恩だとか、義理だとか... 今の世の中で日本人が忘れられようとしている大事なものを、色々と思い出させてくれるんじゃないかと思ったりするんだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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