テーマ:"あすの日本を考える"(493)
カテゴリ:理屈っぽい時間・・・
松の廊下での刃傷事件を受けて... 赤穂藩内には激震が走り、城内には色んな憶測が飛び交ってた。 城代家老の大石蔵之助は、藩士全員を招集して会議を開いた。 このとき、策を講じた蔵之助は、会議でこの城は浅野家が築いた城だから、吉良上野介が生きているままで城を明け渡すのは"武士の義が立たぬ"と主張し、開城の折りには、大手門で皆切腹し、上野介の処分と浅野家再興を願い出ようと、ワザと過激な提案をした。 さらに、蔵之助は家臣団の結束を試すために、行動を共にする者には神文を提出するようにと促した。 提案に従って神文を提出したのは藩士270名のうち70名ほどだった。 このときすでに、蔵之助の頭の中には、家督を内匠頭の弟の浅野大学長広に引き継ぎ、お家再興が認められない場合は、主君の仇として吉良上野介を討ち果たすというオプションが頭の中をよぎっており、信頼する一部の側近には、そんな心のうちを告げていたようだ。 一方、史料によれば、必ずしも浅野家再興に主眼を置いたものではなく、大学に浅野家の家名存続を託すニュアンスが濃いものだったようでもあるんだ。 そして迎えた幕府による赤穂城見分の折り、蔵之助は受城目付と代官に、家督相続を嘆願した。 の蔵之助のプレゼンテーションは大したもので、言葉の端々にリアルに真心がこもり、聞けば心を動かさずにはいられないほどだったと、後に幕府の目付たちの印象が伝えられている。 しかし、残念ながら幕府からは城の明け渡しが申し渡され、浅野家の家臣たちは城も主君もない浪々の身となった。 浪人の身となってからも、蔵之助は知り合いの幕臣のコネを通して、幕府に様々な働きかけをしたんだけど、浅野家再興の願いは退けられた。 そんなとき、吉良上野介はさっさと幕府に隠居の願い出して、わずかに残されていた"喧嘩両成敗"というルールでの上野介の処分も行われなくなり、事件は闇に葬られた。 つづく... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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