テーマ:"あすの日本を考える"(493)
カテゴリ:誇るべき日本人
陸軍中将 樋口李一郎(1889~1970)は、今の兵庫県南あわじ市に生まれた。 十八のときに、岐阜県大垣市の樋口家の養子となり、1909年に陸軍士官学校、 次いで陸軍大学を卒業して、当時では判で押したようなエリート軍人だったんだ。 少将から中将に昇進した樋口が、軍務でハルピンを離れるときがきた。 樋口の見送りには、カウフマンとロシア人の代表のロザノフも姿を見せた。 ハルピンではユダヤ人とロシア人の間では以前から抗争が続いたが、 樋口は、彼らの和解の橋渡しをしようと、親睦クラブを設けて世話をしていた。 ロザノフは、樋口の前でカウフマンの頬に接吻をし、樋口の仲裁に謝意を述べると、 今後、私たちロシア人はユダヤ人とは平和的に付き合いをすると樋口に固く誓った。 定刻、アジア号の警笛が鳴り響き、樋口を乗せた列車はゆっくりと動き出した。 樋口が、列車の後部デッキに立つと、人々は「ジェネラル・ヒグチ!」と叫び、 プラットホームの切れ間まで手を振りながら、遠ざかる列車を見送った。 昭和14年12月、総理大臣、外務大臣、大蔵大臣、陸軍大臣、海軍大臣で会議が開かれ、 日本政府は人種平等の精神を以てユダヤ人を排斥せず、公正に処遇する旨を国策とし、 「ユダヤ人対策要綱」を定めている。 軍人としての樋口は、北方守備の指揮官として赴任。 1943年7月、海軍と連携して、待ち伏せする米国艦隊の裏を突く作戦で、 木村昌福少将の駆逐艦隊によるキスカ島撤収作戦を成功に導き、キスカ島に孤立していた、 五千余名の日本軍守備隊将兵を無事に生還させた。 停戦後の昭和20年8月19日には、突如大挙して千島に攻め込んできたソ連軍部隊に、 戦車隊を投入して激しく応戦し、ソビエト軍に大損害を与え、北海道上陸を断念させた。 終戦後、樋口李一郎中将はソビエト側から「戦犯」の指名を受けた。 北千島での敗北の雪辱を晴らし、樋口に復習したいソビエト政府の意向で、 ソビエト極東軍司令部から連合軍総司令部へ、樋口の身柄引き渡しの要求が出た。 その時、ニューヨークに総本部を置いていたユダヤ協会が動いた。 ユダヤ協会の幹部には、あの日、雪のオトポールで樋口に命を救われた人々も多く、 彼らは恩を返したい一心で、樋口将軍の救出運動を展開した。 ユダヤ協会は合衆国政府に働きかけ、マッカーサーは樋口を擁護するとソビエト側に通告して、 樋口の身柄引き渡し要求を拒絶した。 戦後の歴史に、あるいは映画やドラマにも、外交官だった杉原千畝は美談として登場し、 二万人ものユダヤ人を救い、軍人としても高潔だった樋口季一郎の名前は登場しない。 樋口季一郎という人は、かつて日本政府が掲げた民族平等の理想を忠実に具体化し、 実践した人だといえる。また、樋口のみならず当時の日本軍部も三国同盟を固持しつつ、 その一方ではユダヤ人問題についてはドイツの圧力に妥協することなく、終始一貫しており、 日本がユダヤ人を擁護する姿勢を崩すことは決してなかった。 それは、オトポールの出来事以降の、軍部の樋口に対する「お咎めなし」という処遇が、 何より雄弁に物語っている。 戦後の、日本人に蔓延する日本軍部へのイメージと認識は、総括して中国人と同様に、 「軍国主義=加害者・侵略者」という一面にしかシフトされていないように感じる。 けれども、当時の日本軍部内にも、確固たる信念と良識が息づいていたことを、 決して語られない史実として知っておいて欲しいと思うんだ。 (終わり...) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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