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ないものねだり

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2011.12.15
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テーマ:歴史の探索(130)


考察(刃傷松の廊下)
事件発生:江戸城松の廊下 元禄14年 3月14日 午前9時30分... 

当時、朝廷への新年の挨拶に将軍家から使いが京へ派遣され、
その返礼に、天皇や上皇の勅使や院使が江戸へ下るのが慣例となっていた。 
江戸城で勅使一行を迎える一連の式典は、朝廷の古いしきたりに従って行われるため、
接待係として"御馳走役"を命じられた諸大名は、粗相のないように様々なことに気を使い、
役目を果たすまで大変なプレッシャーだったそうだ。


折りしも、元禄14年の正月に将軍家の使いを果たしたのが高家筆頭の吉良家。
そして、勅使をもてなす役を仰せつかったのが赤穂三代藩主 浅野内匠頭長矩だった。


実は、内匠頭(たくみのかみ)は、17歳のときにもこの大役を無事に果たしていたんだ。
けれども。何か間違いがあってはならないと、念のため家臣に命じて、
助言を得るため吉良上野介義央を訪問させている。


浅野家の家臣からは、お役目に際しては吉良上野介に贈り物をする方がよいのではと、
内匠頭に上申した者もいたとか。しかし、内匠頭としては役目も済まないうちに、
贈り物をするのは逆に不躾で心苦しいと、家臣の意見を退けて事を進めたため、
吉良上野介の機嫌を損ねたともいわれている。 


ともあれ、嫌味をいわれたり意地悪をされながらも、個々の行事も順調に進行し、
将軍から勅使へのお返しの品を贈り、御馳走役の主な役目を今まさに終えるところだった。


諸説ある中でも有力な説によれば、この日、内匠頭は上野介に作法について尋ねたが、
上野介は、"そんな事では御馳走役は勤まらぬ"と笑いながら、諸侯の面前で馬鹿にした。
それでも、内匠頭は堪えて上野介にアドバイスを求めたがまったく応じなかったとか。
早い話、老い先短い年寄りの若造へのちょっとしたイジメだった。


我慢を重ねた内匠頭も、溜まりに溜まっていた上野介に対する怒りは頂点に達し、
ここでブチキレてしまったんだ。


  この間の遺恨覚えたか!


内匠頭はそう発して、松の廊下に差し掛かる上野介に、小刀を抜いて切りかかった。
一瞬、殿中はとなって、内匠頭は吉良上野介の背中に傷を負わせたところで、
梶川与惣兵衛に組み伏せられて上野介を討ち取ることは適わなかった。


事件現場は、江戸城松の廊下といわれているけど、本当は柳之間廊下だった可能性が高い。
柳沢吉保梶川与惣兵衛の日記にも「柳之間」という記述が出てくる。


事件当日、ロクに調査もせず、即日、内匠頭に切腹の沙汰を下して執行させた、
将軍綱吉を批判する声も結構上がった。けれども、当時の定法に照らしても、
この批判はおかしな話なんだ...


(将軍の裁定)
内匠頭が切腹になった罪状は"江戸城内で刀を抜いた一件"
江戸城城内での抜刀は、御法度中の御法度...


江戸城で刀を抜けば、将軍に対する謀反、どんな理由でも死罪は避けられない事だった。
実際、職務上とか一部の例外を除いて、城内での抜刀は切腹が当たり前だった。
ましてや、内匠頭の場合は朝廷の使者を迎える日に、接待担当者がやらかしたのだから、
本来なら大罪人。


さらにいうと、乱心(狂った)で片付けられると、打ち首か、罪に問われなくても家督断絶。
もっとみじめで不名誉なことにもなり兼ねない。


むしろ、切腹の判定が破格の扱いというか、幸運としか思えないのも事実だ。
武家諸法度に照らせば、確かに"喧嘩両成敗"はセオリーだけど、この事件は江戸城での抜刀。
だから、周囲の反応が随分違っているのが、逆に謎だったりする...




赤穂騒動記(2)へとつづく...












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Last updated  2011.12.15 16:53:27
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