テーマ:歴史の探索(130)
カテゴリ:砂的古典文学のススメ
(お家再興と真相究明の望み) 文字通り、赤穂藩には大激震が走り、城内は混乱して不安と憶測が飛び交う。 城代家老の大石内蔵助は、藩士全員を招集して一つの策を講じた。 内蔵助が開いた評定(会議)の席では、この城は浅野家が築いた城であり、 吉良上野介が生きているままで城を明け渡すのは"武士の義が立たぬ"と主張し、 開城の際に大手門で一同切腹して、上野介の処分と浅野家再興を願い出ようと提案した。 さらに、浅野家の家臣の結束を試すため、行動を共にする者に神文を出すようにと促した。 内蔵助の提案に従って、神文を提出したのは藩士270名のうち70名ほどだった。 このときすでに、内蔵助の考えの中には、家督を内匠頭の弟の浅野大学長広に引き継ぎ、 再興が認められない場合、主君の仇として上野介を討つという過激なオプションを用意して、 信頼する側近には、心中を告げていた。 一方、史料によれば、必ずしも浅野家再興に主眼を置いたものではなくて、 大学に浅野家の家名存続を託すニュアンスが濃いものだったようだ。
そして迎えた、幕府による赤穂城見分の折り、受城目付、代官に大学の家督相続を嘆願した。 このときの内蔵助のプレゼンテーションは大したもので、言葉の端々にまで真心がこもり、 聞けば心を動かさずにはいられなかったと、後に幕府の目付たちが伝えている。 しかし、そんな願いも虚しく、赤穂城明け渡しが言い渡され、 浅野家の家臣たちは、遂に城も主君もない浪々の身となった。 浪人の身となってからも内蔵助は、知古の幕臣を通じて幕府に働きかけ、 浅野家再興のために手を尽すが、遂にその願いは退けられてしまいまう。 そんなとき、上野介は幕府に隠居を願い出て認められてしまい、 これによって、わずかな可能性の残された"喧嘩両成敗"というルールでの、 上野介への不処分が決定的となり、事件は永久に葬られた... 赤穂騒動記(3)へとつづく... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.12.15 19:15:06
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