テーマ:歴史の探索(130)
カテゴリ:砂的古典文学のススメ
(討ち入り成功と合理的推理) 元禄15年(1702)12月14日、元赤穂藩 城代家老の大石内蔵助良雄以下、 浪士46名は、本所松坂町(墨田区両国3丁目)の吉良上野介義央邸に討ち入り、 吉良上野介義央の首を挙げて主君の仇討ちを遂げる。 当時の江戸市中には、"木戸番"や"辻番"があり、さらに夜間外出禁止令が出ていた。 なのに、大人数の武装集団が幕府のお膝元で不審な動きをしていたにも関わらず、 なぜ阻止されなかったのかが大きな疑問点だ。 また、討ち入り後に両国橋で奉行の服部彦七の役目上の渡橋拒否には遭ったけれど、 両国橋は渡らず、そのまま永代橋へ向かい、何の咎めも受けず、トラブルにもならず、 永代橋をスムーズに通行して撤収できたというのもちょっと不思議な話。 一説には、"喧嘩両成敗"のルールを考慮に入れなかった幕府側も、 後日にちょっと"負い目"に感じていたという。 浅野家断絶に導いたという庶民の悪評と、浪士支持へ世論が傾いていることを察し、 柳沢吉保が保身のために手を打っていたのではないかという説もあるけど、 これが事実であれば、すべて合理的に説明がつく面白いところ。 さらに、吉良家から跡継ぎを迎えていた上杉家家老の色部安長も、なかなかの人物。 色部は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りすることを未然に防ぐ事は不可能だと判断して、 上杉家の立場を守るため、あえて援軍は送らず、上野介を"見殺し"にしたというのも事実だ。 こうして赤穂浪士は無事本懐を遂げ、上野介の首級を挙げて江戸町民に賛美されながら、 泉岳寺に眠る主君浅野内匠頭長矩の墓前へ仇討ちの報告をした。 また、浪士の寺坂吉右衛門は、討ち入り後、内匠頭の妻瑶泉院や家族一党に対して、 仇討ち成功の報告に廻ることを内蔵助に命じられる。 これによって、寺坂吉右衛門は一味とみなされず"切腹"を免れることになるけれど、 これも内蔵助の思惑の一つで、自分と共に戦った部下たちの功績と、赤穂藩の名を残すため、 周到に計算した上での命令だった。 ~完~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.12.16 01:03:30
コメント(0) | コメントを書く
[砂的古典文学のススメ] カテゴリの最新記事
|
|