テーマ:歴史の探索(130)
カテゴリ:砂的古典文学のススメ
能には「道成寺」、芝居や歌舞伎に「娘道成寺」という演目がある。(知ってた?) 紀州の道成寺は、文武天皇の勅願によって大宝元年(701)に創建された。 能や歌舞伎の題材の起源となるものは、建久年間の1,040~1,044年にかけて記された、 仏教説話集の「紀伊国牟婁郡悪女(きいのくにむろぐんあしきおんな)」だと伝えられている。 物語は、「道成寺縁起」にオリジナルとは異なる脚色を加えた砂浮琴バージョンだ。 題して、「紀之国真砂悪女」。 脚本は書いたけど、blogで全部紹介するのは無理だから、 あらすじだけを更新するよ♪ 創作「紀之国真砂悪女(きのくにまさごあしきおんな)」 それは、延長六年(928)のこと... 若き"イケメン僧侶"が、奥州から熊野権現へと詣でる修行の旅の道中だった。 僧侶は、紀伊国牟婁郡の真砂まで来て、ある館にこの日の一夜の宿を求めたことから、 この物語はドラマチックな展開となる。 その夜、僧侶を快く泊めたのは、この土地の有力者庄司清次の未亡人で館の女主人だった。 女は、旅の若い僧侶に食事を供して歓待したが、夜も更けた頃になって、 こともあろうか、僧侶が休んでいる離れの間に忍んで来て、夜伽(よとぎ)を迫る。 僧侶は、驚いて飛び起きた。 僧侶に向かって女は、「今まで、誰一人泊めたことのない館に泊めたあなたとは、 前世からの縁があってのこと...」 「今宵、契りを交わすに何を憚(はばか)ることがありましょうや!」と迫った。 僧侶は当惑しながら「私は、熊野権現への参拝を願って遙々と旅をして参りました」 「ここで戒律の破る訳には参りません!」僧侶はそう答えたが、女は聞く耳を持たない。 そこで僧侶は、「それでは、熊野詣でを終えた帰りに必ず参ります」と約束をして、 女をなんとか納得させて、ようやく館を発つことができた。 女は、僧侶の言葉を信じて、今か今かと僧侶が戻るのを待ったが、 いつまで経っても僧侶は、女のところへは姿を現さなかったんだ。 通り掛った人に訪ねると、「若い坊様なら、かなり前にお帰りに...」と聞き、 そこではじめて、あの僧侶に袖にされたのだと気づいた。 「さては、すかしにけり!」 恥をかかされたことを恨みに思い、怒り心頭に達した女は髪を振り乱し、 履いた履物を脱ぎ捨てて、脱兎のごとく駆けて僧侶を追いかけた。 女の姿は余りに異様で、道行く者たちも恐れたじろぐ様相だった。 髪は逆立ち、着物をはだけさせ狂気に駆られて走る女... やがて、女の体には緑色の鱗が生え出し、目尻は吊り上がって口はみるみる耳元まで裂けて、 口から吐く息は炎となり、とうとう恐ろしい大蛇に姿を変えた。 大蛇が追ってくると聞いた僧侶は、館の女主人に違いないと思い、道成寺に助けを求めた。 事の次第を聞いた道成寺の寺僧たちは、大鐘の中に若い僧侶を隠して匿うことにする。 けれども、それが裏目になってしまった... 僧侶を追いかけて道成寺へとやってきた大蛇は、大鐘を睨みつけるやいなや、 鐘に胴をぐるり絡め、尾で叩いたうえに大鐘に向かって真っ赤な炎を吐き出したのだ。 一刻ほどの間、大蛇は鐘に胴体を巻きけたまま、炎を吐き続けた。 そして、ようやく頭を持ち上げ、目からだらだらと血の涙を流し、 焼けてただれた醜い胴体をゆるゆるくねらせながら、日高川に身を投げて息絶えた。 大鐘は、赤々と焼けて、熱気で誰も近づけないほどだった。寺の僧たちはようやく我に返り、 水をかけて冷やし、鐘を持ち上げて覗くと、哀れにも若い僧侶は焼け焦げた骨となっていた。 それから数日後のこと... 道成寺の老僧が眠る夢の中に一匹の蛇が現れ、「私はあの鐘で焼かれた僧です」と、 老僧に話しかけた。 蛇がいうには、自分は殺された挙げ句、今は無理矢理夫婦にされているので、 老僧の手で法華経を納経して悪縁を断ち切って欲しいとのことだった。 「生前、法華経を尊んでおりましたが、未熟であったため未だ救われません」 「どうかお願い申します」そういい終えて蛇は姿を消した。 目覚めた老僧は、法華経を写経して、僧侶と女主人を手厚く供養した。 数日後、老僧は再び夢を見た。 そして夢の中で、若い僧侶は天界の都卒天に、女主人は刀利天になって、 天に昇ることができたと知る... 後に、この法華経の法力を解いた仏教説話は、能の「道成寺」となり、 多くの芸能へと発展して、歌舞伎では「娘道成寺」、文楽では「日高川人相花王」、芝居では「安珍清姫」へと、それぞれ脚色されて伝えられて行く。 この逸話で男が学ぶべきことは、女の夜の誘いは断っちゃダメってこと。(ちと違うか...笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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