テーマ:"あすの日本を考える"(493)
カテゴリ:理屈っぽい時間・・・
少し前、4年以内に首都圏直下型地震の起きる可能性が70%と、 東大地震研究所の試算報道には驚いたね。 そのあと、一部報道では今度は京大防災研究所の確率計算で5年以内に28%と、 少しばかり穏やか内容の報道もあった。 この国にとって、人は老いて死ぬということと地震が起きることは、 ほぼ等しいほど確実なことは間違いないみたいだね。 だからといって、好きな数字を選ぶ馬券を買うような感覚にはなれない。 国でも、自治体でも、費用の掛かる防災には物理的に限界がある。 個人としても、それなりの知恵と努力と工夫が必要だ。 そう…安全といえば、防犯や防災対策だけには限らない。 戦後のピントのズレた教育の結果、"安全と水はタダだ"という大馬鹿者が増えたけど、 アフリカ・中東の紛争国や、内線を経験した東欧諸国の人たちからすれば、 そうした日本人の無知は、彼らから腹立たしくもあり軽蔑される。 以前、親しくしていた日本在住の中国人の言葉が思い出される... 「日本人は安全の本質を知らないと、いつか侵略されるか滅ぶよ」と。 その通りだと思う。 安全は、その安全の本質と自分との相関関係を知ることからはじまる。 そもそも、安全神話は履き違えられた民主主義と自由意識がもたらしたもの。 民主主義とは、多数決の「数の論理」がすべてではない。 間違った事が、「数」の理屈だけでまかり通ることが、すでに民主主義ではない。 民主主義の理念は、秩序(法)の下の平等だ。 平等というからには、リスクもメリットも平等に分かち合うことだ。 震災の瓦礫の受け入れを拒否して、自分が安全快適ならイイと思っていることも... 沖縄だけに負担を強いて、自分は平気な顔で暮らすことも... 憲法9条を掲げていれば、不変的な平和を得られると思い込むことも...都合のよい権利だけを主張する、自己中心的な正義感が産み出したものだ。 安全とは、代償を払ってでも手にすべきものだと思う。 それだけ、失ってはならないと世界中の人が強く実感するもので、 日本人だけが、安全が当たり前にあるのを前提に物事を考え過ぎている... これからの日本が、安全を一番に思うなら、一人ひとりがこの国の成り立ちと、 隣国の動向を正しく知り、この国が断固として対応すべき相手を知るべきだ。 「知る」ということ自体が、安全を築く「力」になる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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