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カテゴリ:その他
タイトルが浮かばない。 かと言って、無題だと後で何かで読みかえす時にわからないからね。。。タグつけても。 ttp://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_252290 広島の原爆投下や東京大空襲の体験者が自身が見た光景などを描いた作品展示を見てきた。 感想ですか。ないですね。というか、浮かばない。どの言葉も適切ではない気がする。適切な言葉が浮かばない。 去年の12月に長崎へ行った際、長崎の原爆資料館へも寄ってきた。その時感じた事を今回、改めて色々思い出した。 近年、人の痛みをわからない若者が増えているという。 私が学生の頃は修学旅行の行き先といえば広島・長崎の原爆資料館が必ずと言っていいほどの定番コースであった(今は知らないが)私は修学旅行に参加しなかったから原爆資料館に訪れたのは去年が初めてだったのだが、その時に見学して感じたのは「思ったよりグロテスクではなかった」という事である。 そう、実際訪れる前はもっとグロテスクな展示や史実が示されていると思った。しかし実際に訪れてみてどちらかといえば余りに凄惨過ぎた故か体験談として語られたりする話やその遺品などは沢山ある。例えば原爆の熱で変形してしまったもの、原爆の熱で人の影が焼きついてしまったもの等。物品や建物の被害から原爆の被害とはとても恐ろしいものだとは感じたのだが、私はもっと人体的な影響を表した写真があると思っていた。しかし、それらは録画として語られていても写真としての展示は思ったより少なかったと思う。 私はホラー映画とかが大っきらいだ。グロテスクな物はかなり苦手だ。そういうものを求めていたわけではないのは御承知願いたい。 そう、どれだけの史実を並べられてもその人の体験してきた事はわからない。 しかし話などからある程度の想像は…なんて言うけれど、今の若い人達はその想像をどれだけできるのだろうかと思う。いや、今の若い人でなくて私の世代も含めいわゆる「戦争を知らない世代」にどの程度伝わるのであろうかという事だ。 これだけ映像が溢れ、本離れが進みラジオという習慣もなくなっていってる。映像でダイレクトに凄惨な画面が溢れているし、あんまりにもグロテスクな物はどんな真実でも自分でネットで検索等すれば見れるだろうが基本は規制がかかる時代。 戦争や原爆の凄惨な絵は残されている。文章も残されている。語り部の録音も残されている。戦争を知らない世代は経験と想像力から戦争NOなり、痛みについて考えてきた人も多いであろう。しかし、それらは想像力なり痛みの経験なりがあるから察する事が出来るのではないだろうか。そして、それらが一過性の怒りや悲しみではなく、長きにわたる強烈な何かが残る事によって人は自制をし、語り継いでいくのではないだろうか。 人はその時泣いても大半の事はいつかは忘れてしまうのだから。 東日本大震災の時、海外のメディアは津波の写真で人が流れていく映像を放映してる。人の腕や顔なんかも映し出されていたらしい。しかし、日本国内は物や建物が流される映像は流しても人が流れている様を写さないという点で海外では驚かれたという記事をみた。 人の苦しんでいる姿を写さない。死者の姿を写さない。このような配慮は日本人特有のものではないかと思う。その点は日本人としての美徳としても取り上げられるところであるが、裏を返せば見る側は残酷すぎるシーンは拒絶反応があるという点もあるかと思います。日本人はそのようなグロテスクな真実に見慣れていないというのか…「そこは日本人として配慮しろよ」で終わってしまってる気がしますね。プライバシーの問題もあるでしょうが。 (原発事故で取り残されたペットの共食い映像なんかも放映されてませんよね。取り残されて餓死された映像だけで見てられない…ではなく、もっと凄惨な事実があるわけです。しかし、見るのを拒否してしまったらそこで終わりです。) 非常に難しい問題だとは思いますが、人の死どころか生きて一緒にいる人の苦しみすら分からない人達が人の死についてどれだけの思いを寄せられるのでしょうか。 正直、どこまで全てをさらけ出す必要があるかわからないけど、ただ、余りにオブラート包み過ぎてるのではないかな?と。これからの世代には感情と想像と受け入れやすい現実の残りだけで語り継いでいく事に難しさを感じたのです。今まではそれで戦争NOといえた世代も減っていっていく現実。考え方や経験の違い。 もっとダイレクトに伝えていかねばいけないのではないだろうかと考えてしまった次第です。 支離滅裂だな。 まったくまとまってないがそのままにしよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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