天声人語 朝日新聞 9月5日
夜道を歩いていたら、植え込みで『チン、チン』と鳴いている。今年初めて聞くカネタタキだ。コオロギの仲間で、鉦をたたくように鳴く。立ち止まって耳を澄ますと、別の葉陰からもチン、チン…。秋が耳の奥へ広がっていく。 12月を音のイメージで表した『音の歳時記』と言う詩が、那珂太郎さんにある。一月は『しいん』。厳冬に天地は静まる。二月は『ぴしり』。春が兆して氷が割れる。三月の『たふたふ』は雪どけの川。詩人の感性は、さすがにみずみずしい四月は『ひらひら』。野を越えて蝶が飛ぶ。五月は『さわさわ』と風がわたる。六月『しとしと』。七月の『ぎよぎよ』は蛙の合唱だ。そして八月の『かなかなかな』から、九月は『りりりりり』。音の呼び覚ます季節感も趣は深いその詩さながらに、東京ではここ数日で、樹上の吹奏楽から草むらの弦楽に楽団が変わった。カネタタキはささやかな打楽器か。虫の声の移ろいは、太陽の季節から『もののあわれ』の季節への、舞台の巡りを人に教える。昔は、虫の声にも『聞きなし』があった。リーリーと鳴くコオロギの声を『糸刺せ、針刺せ、つづれ刺せ』と聞いたそうだ。冬着の繕いを急がせる声だという。夜が静かだった頃の炉辺の想像である。那珂さんの詩は、十月『かさこそ』、十一月は『さくさく』と続く。落ち葉と、霜の朝である。十二月は『しんしん』。雪が降って、時の逝く音だそうだ。心を澄ませば聞こえるかもしれない。日々の喧噪から、時には心身を解き放つのも良い。