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テーマ:『義経』(332)
カテゴリ:義経
もっと早く日記をアップしようと思ってましたが、意外に忙しく思うままにパソコンに長時間向かえない日が続き、
遅くなってしまいました。 先日の日記で、 >「しかし、どうして京に入っただけで、義仲が源氏の棟梁になって頼朝が家来になるんでしょう~?」 と書いたところ、後深草少将さんから >「いち早く入京して朝廷から高位の武官の官職を補任された方が清和源氏の棟梁である。」 と義仲に入れ知恵したのは行家なのではないでしょうか? というお返事を頂きました。 そうなんですね。氏の長者という制度(?)のことを忘れていました。 『氏の長者』とは~安時代以後、氏族の首長の呼称。奈良時代以前の氏の上(かみ)にあたる。氏の中で最高官位の者がなり、氏を統率した~ 頼朝は源氏の嫡流と声を大にして言ってますが、武家系の源氏は公卿としての地位が低く、同じ天皇家に発した家でも、 村上源氏とでは家格が違うものだったようです。 そんな理由で武家に転身したと思われるのです。 さて、村上天皇から分かれた公家源氏の中でも官位がもっとも高かったのが久我(こが)家です。 太政大臣も出してますからね! この頃の源氏の氏の長者は久我通親です。 さて、後深草少将さんのご質問の >久我家が頼朝や義仲を共に部下にして平氏を追討して久我幕府を開く可能性はなかったのだろうか? 久我家は権力著しい平家に接近し、治承5年(1181)久我通親は従三位となります。 しかし、清盛が死去すると、後白河法皇にも接近します。 その後1183年 通親は正三位に進みます。 やがて、義仲が入京してき、法住寺御所を急襲し、法皇を捕らえて義仲政権を樹立します。 この時、通親は義仲政権に参加しているのですよ! 武力を背景にした義仲にたてつくことは出来なかったのでしょうか? もし、ここで源氏長者を盾に義仲に部下にしようとすれば成功したのでしょうか? この官位という権威が義仲に通じたかどうかですよね。 しかし、地方武士の官位に対する憧れはかなり強かったみたいなので、その辺はどうでしょうか? 義仲が宇治で義経・範頼に敗れてから、後鳥羽天皇の乳母となった高倉範子を妻に迎えています。 この後、通親は乳父として天皇の後見に納まり、益々朝廷に食い込み権勢を振るっていきます。 それからも、後白河法皇派として、頼朝の朝廷改革を失敗させます。 丹後の局とも結び、後白河法皇の皇女の覲子内親王(のちの宣陽門院)の勅別当となったり、 とにかく次から次と権力者に取り入って出世していくのが上手かったようで、 後白河法皇崩御の後は頼朝にも近づき征夷大将軍の宣下を実現させるのです。 武力を持った頼朝の前では、権威も役に立たなかったのかもしれないですね。 この後まだまだ、通親はがんばりついに天皇の外祖父になります。(通親の養女の在子が生んだ皇子がのちの土御門天皇) 通親は源氏長者として幕府を開かなくても、朝廷で権勢を誇っていたので充分だったのではないでしょう? 官位は、武力の前では頼朝・義仲を従えさせるほど強力なものではないのかもしれませんね! また、源氏武士団や後白河法皇を操れるほどの力量もなかったのかもしれません。 しかし、同じ源氏と言っても、公家系と武家系はお互いどう思ってたんでしょうね? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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