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カテゴリ:「京」ものがたり
今日は京都では、祭りといえば『葵祭』というぐらい有名なお祭りの日です。
京都三大祭りのひとつである『葵祭』は、源氏物語にも登場するほど古く540年頃に始まったといわれています。古墳時代後期の欽明天皇(540~571年)の時に凶作に見舞われて飢餓疫病が流行しました。 占ってみると「賀茂神」の祟りであることがわかって、祭礼を行ったのが起源だそうです。 上賀茂・下鴨両神社の毎年同じ日に行なわれる例祭であり、昔は賀茂祭と呼ばれていました。 平安貴族の間では、祭りといえば賀茂祭!といわれるほど有名だったそうです。 この祭は平安時代以来、国家的な行事として行われてきたので、日本の祭りの中でも、王朝風俗の伝統が今も色濃く残される数少ない祭りといえるでしょう。 しかし室町時代中期になると、財政難のために衰微してゆき、ついに応仁の乱によって完全に中止されてしまいました。やっと再開できたのは1694年ごろ。 この時から『葵祭』とよばれるようになったのです。 それには、上賀茂神社の祭神が見た夢の中で「我を祀るに葵をかずらにせよ」とお告げがあり、祭儀に関わる人たちから内裏神殿の御簾、御所車、牛馬にいたるまですべてを、もともと魔除けの食用植物だった葵の葉で飾ったことから『葵祭』と呼ばれるようになったとする説。また祭りの復興に『葵の御紋』を持つ徳川幕府の多大な援助があったからともいわれています。 そして5月15日と定められたのは明治17年。 明治維新で中止されていたのを、岩倉具視の尽力によって再興した際に決められました。 ちなみに、牛車(ぎっしゃ)は、外見の優雅さとは裏腹に、乗り心地ははなはだ悪く、車酔いも起こしかねないそうです…。 葵祭は、平安王朝貴族の装束をまとい、頭に葵の葉をつけた約500人の王朝人や御所車の行列が、厳かにそして優雅に歩みすすみます。行列が通過するのにかかる時間はおよそ1時間。本列を先導する乗尻(のりじり)と呼ばれる騎馬隊をはじめ、検非遺使(けびいし)、内蔵使(くらづかい)、山城使(やましろつかい)、牛車、風流傘、斎王代らの華麗な女人列などが、平安貴族そのままの姿で列をつくります。 午前10時30分に京都御所を出発。王朝風の優雅な列が下鴨、上賀茂両神社まで練り歩きます。 絢爛豪華な様は「源氏物語」や「枕草子」にも記されており、よく見える観覧場所を巡って町中のあちらこちらで争いが巻き起こるほど、大人気の祭りだったとか。 ちなみに源氏物語では、行列を見ようとする場所取りの混雑のなか、光源氏の恋人であった六条御息所の網代車が、正室である葵の上の従者によって押しのけられます。 そして「葵の上憎し!」の怨念は生き霊となり、葵の上にとりつくといった内容。フィクションとはいえ、女同士の戦いは怖いものです…。 また、この行列の中心である斎王代は30kgもあるとされる十二単を着て、腰預(およよ)と呼ばれる輿(こし)に乗ります。 着付けには2人がかりでなんと3時間近くもかかるそうです。 平安時代の女性は、意外とタフだったのかもしれませんね。 毎年5月3日に、「葵祭」の前儀として行われる行事のひとつに『流鏑馬(やぶさめ)』があります。 これは、葵祭当日に行列の道中が、平穏無事に行われるように、その道中を祓い清めるために行われる神事です。下鴨神社の糺(ただす)の森で行なわれ、全長約350メートルの馬場に、100メートルおきに50センチ四方の的が3つ設けられており、狩衣を身に付けた騎手が馬を走らせながら弓矢で的を射抜くというもの。迫力ある凄い技が見られます。 全力疾走する馬に乗るだけでも大変なのに、さらに両手を放して弓を引くというのは、かなり至難の技。 ちなみに競馬での馬の速度は、時速60キロ前後だとか。一般道を走る車とほぼ同じ速さです。流鏑馬の速度は定かではありませんが、迫力あることは間違いありません。 下鴨神社では、流鏑馬とは云わずに「騎射(きしゃ)」と明治初年まで呼んでいたそうです。この騎射が、いわゆる流鏑馬の原形となるわけなのですが、『続日本紀』に「文武天皇(もんむてんのう)2年(698)賀茂祭(葵祭)の日に民衆を集めて騎射を禁ず」とあります。 当時賀茂祭と呼ばれていた葵祭の日の騎射に、あまりに大勢の見物人が集まるために、三度も禁止令が出るほど有名だったとか。 かなり古くから行われていて、大変人気のある祭りだったことがうかがえます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.15 08:22:48
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