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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:東海道五十三次
旧東海道の府中宿をさらに西へ進むと、静岡市街地の西側を流れる安倍川へとやって来ました。
歌川広重「東海道五十三次 府中安倍川」 現在の安倍川はこんな感じです。 同じアングルで撮ったつもりですが。。。 江戸時代の東海道には架橋が禁止されていた川がいくつかあり、大きな川では大井川と安倍川がその代表例です。 いずれも川越人夫によって、川を渡してもらう必要がありました。 安倍川の両岸には、その川越人夫の監督所である「川会所」が置かれていました。 川会所跡 毎日役人がここに詰めて、川越人夫の指示や渡し賃の取扱、さらには警備監督を行っていました。 (皮肉なことに、現在の川会所の跡には交番が建っています) その安倍川の脇には、「義夫の碑」が建っています。 1738年に紀州(和歌山)の旅人が、安倍川の渡し賃があまりに高いので、人夫を雇わずに自分で渡ろうとしました。 しかしながら、川を渡ろうと着物を脱いだときに、うっかり財布を落としてしまいました。 その旅人の財布をたまたま川越人夫の喜兵衛が拾ったのですが、その人夫は旅人の後を追って次の丸子宿の方へと向かって行きました。 ようやく宇津ノ谷峠で財布を探しに戻って来た旅人に出会い、無事に財布は旅人の手に帰ったのですが、礼金を渡そうとする旅人に対し、川越人夫の喜兵衛は「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前だ」と受け取ろうとしなかったそうです。 (この後で丸子宿の宇津ノ谷峠を越えましたが、すごい難所です) 喜兵衛がどうしても礼金受け取らないので、旅人は仕方なく駿府町奉行に礼金を渡すことにしました。 奉行所からの呼び出しでも喜兵衛は礼金を受け取ろうとしないため、町奉行は礼金を旅人に返し、喜兵衛には褒美としてお金を渡したとのことです。 そして昭和4年にその美談を称えて、和歌山県と静岡県の学童有志により。「義夫の碑」が建てられました。 その碑にはこう書かれています 難に臨まずんば 忠臣の志を知らず 財(たから)に臨まずんば 義士の心を知らず 意味はよくわかりませんが、道徳の教科書に出そうないい話があったものです。 ところで安倍川と言えば、やはり「安倍川餅」でしょうか。 安部川の上流で金が採れることもあり、ある人が「きな粉」を「金な粉」と洒落て徳川家康に献上したところ、家康は大喜びして「安倍川餅」と名付けたそうです。 今も安倍川の近くには、あべかわ餅のお店が並んでしました 文化元年(1804年)創業の「石部屋」 関連の記事 東海道~府中宿(その1)→こちら 東海道~丸子宿→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/03/09 10:56:20 AM
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