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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:東海道五十三次
丸子宿の中心部を過ぎると、旧東海道は山あいを行くようになり、いよいよ宇津ノ谷峠の要衝へと差し掛かります。
宇津ノ谷の旧東海道は昔の道幅をとどめており、峠の旧街道の風情が残っていました。 この辺りでは今でも「伊勢屋」などの屋号で呼んでいるそうですが、その中に「お羽織屋」の屋号を持つお店があります。 お羽織屋 元々は「石川屋」という屋号だったのですが、ある出来事をきっかけに「お羽織屋」の屋号を名乗るようになりました。 1590年の北条氏の小田原城攻めの時、東海道を東上していた豊臣秀吉は、石川屋の軒下に吊るされた馬の沓に目を止め、使い古された自分の馬の沓と取り替えようとしました。 しかしながら石川屋の主人は、四脚の馬に対して三脚分の沓しか差し出そうとしませんでした。 「馬の脚は四本なのに、どういうわけか」と尋ねる豊臣秀吉に対し、石川屋の主人はこう応えました。 「申し上げます。差し上げた三脚分の馬の沓は、道中安全をお祈り申し上げたつもりでございます。残る1脚分でお戦のご勝利を祈るつもりでございます。」 それを聞いた豊臣秀吉は、機嫌よく小田原に向けて出発して行ったそうです。 しかしながらこれだけだと、なぜ豊臣秀吉が機嫌よく出発していったのか理解に苦しむところです。 石川屋の主人は「四」が「死」を意味するので縁起が悪いので機転を利かし、豊臣秀吉も鋭敏にそれを察知したからだそうです。 それから半年ほど経って、小田原城攻めの帰りに豊臣秀吉は再び石川屋に立ち寄りました。 そして約束通り勝利で帰って来た豊臣秀吉は、褒美として自分の着ていた陣羽織を石川屋に与えました。 それからは「お羽織屋」を名乗るようになったのですが、その豊臣秀吉着用の陣羽織は今も残っており、石川屋では陣羽織を見せてもらうことが出来ます。 豊臣秀吉が着用していた陣羽織 店のおばあさんが長時間丁寧にエピソードを語ってくれましたが、話の最中も展示してある陣羽織が気になって仕方がありませんでした。 実は豊臣秀吉の陣羽織がここあることは以前から知っていたのですが、それでも実際に陣羽織を目の前にすると新鮮な感動がありました。 この陣羽織を見ようと訪れた人は数多く、徳川家康もその1人でした。 徳川家康も感動して、記念に茶碗を置いていったそうです。 徳川家康が贈った茶碗 他にも大勢の大名がここを訪れ、その芳名録を見ると錚々たる名前が並んでいました。 宇津ノ谷の要衝にある旧街道の片隅ですが、ここを実際に訪れた人の顔ぶれを思うだけで、自分もここを訪れていることの不思議さを感じます。 旧街道に残された数々の足跡には、街道めぐりの醍醐味があるような気がしました。 関連の記事 東海道~丸子宿(その1)→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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