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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:東海道五十三次
丸子宿から宇津ノ谷峠の要衝を越えると、旧東海道も平坦となって岡部宿に入っていきます。
奈良時代に官道が整備された頃の東海道は、焼津から日本坂を抜けて駿府に至る海沿いのルートをたどっていました。 その後源頼朝によって宇津ノ谷を越えるルートが整備され、岡部宿が設立されています。 江戸時代の岡部宿には本陣が2軒と脇本陣が2軒あったのですが、旅籠屋は大小合わせて27軒しかなく、割と小さな宿場町でした。 それでも旅籠屋の1つである「柏屋」は、今も旧街道の面影を留めて今に残っています。 旅籠屋の「柏屋」 歴史資料館となっていますが、建物は江戸時代の1836年に建てられたもので、登録文化財に指定されています。 その柏屋の2軒先にあるのが「内野本陣」ですが、今も人が住んでいるようなので、中を見るわけにはいきませんでした。 内野本陣跡 本陣の隣に「岡部宿公園」という公園があったのですが、これが何なのかはよくわかりませんでした。 特に何があるわけでもないのですが、本陣のすぐ隣だからという理由で造られたのでしょうか。 2車線の車道となっている旧東海道ですが、途中から狭い道幅に分かれて、旧街道の道幅を今に残していました。 静岡県内の旧東海道ではおなじみの看板です。 1車線の旧街道が再び2車線の道路と合流したところには、「五智如来像」が建っています。 元々は丸子宿の誓願寺にあったのですが、誓願寺の移転と共にここに移されたものです。 1705年に田中城の城主となった内藤豊前守式信には、口の不自由な姫がいました。 それを悩んでいた内藤式信でしたが、徳川家の奥方に相談すると、「誓願寺の阿弥陀さまにお参りするといい」と教えられ、お参りを続けた満願の日に姫は口をきけるようになったそうです。 そして内藤氏の家老であった脇田正明により、この五智如来像がこの地に寄進されました。 五智如来像からは2車線の道路が続きますが、道路脇には東海道の象徴である松並木が今も残っていました。 このまま藤枝宿まで行くつもりだったのですが、五智如来像の隣にある観光案内所のガイドさんの話を聞いて、急遽予定変更を変更することになりました。 (岡部の地名の由来を聞いたことから始まった話です) 関連の記事 東海道~丸子宿→こちら 田中城→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/03/09 10:54:52 AM
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