|
テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(群馬編)
連日ニュースで信じられない暑さが報じられる群馬県館林市、その館林にあるのが「分福茶釜」のルーツとして知られる茂林寺(もりんじ)です。
分福茶釜と言えば、茶釜を背負ったタヌキが綱渡りをしている絵を覚えていますが、「はて、どんな話だったか…」 結局どんな話だか思い出せないまま、茂林寺の参道に到着しました。 参道にはお店が並び、大小のタヌキの焼物がずらりと置かれていました。 (関西では見慣れた置物ですが、明らかに信楽焼です) そして茂林寺の総門までやってきました。 総門をくぐると、さらに参道の両側にタヌキの像が並んでいました。 茶釜を背負ったタヌキもいますが、近くで見てみると結構グロテスクです。 タヌキとの関わりがよくわからなかったものの、茂林寺の歴史は古いようで、総門のさらに奥にある山門を見ると、古刹であることがわかりました。 山門(赤門) 江戸時代の1690年に創建されたものです。 本堂も古く、江戸時代中期の1790年に改築されたものが現存していました。 本堂 本堂の中を拝観することもでき(有料)、順路に従って中へと進んでいきました。 こちらはリアルにタヌキの剥製が並んでいます。 そしてガラス戸の向こうに茶釜が置いてありました。 お寺の解説によると、この茶釜は守鶴という僧が愛用していた茶釜だそうです。 守鶴は1426年に、茂林寺の開山である大林正通禅師に従って、伊香保から茂林寺にやってきました。 ある時茂林寺で千人法会が開かれることになったのですが、その時に大勢の客を賄う湯釜が必要となり、この時守鶴がどこからか持ってきたのがこの茶釜だそうです。 この茶釜はいくら湯を汲んでも尽きることがないため、守鶴は自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付けました。 以上がこの「分福茶釜」の由来なのですが、タヌキとどういう関係があるのか、さっぱりわかりませんでした。 タヌキと茶釜の関係はさておき、茂林寺の本堂内には、他にも貴重な資料が展示してありました。 3代徳川家光、8代徳川吉宗から与えられた朱印状 後柏原天皇(在位1500年~1526年)の綸旨 結局タヌキの話はわからずじまいのまま茂林寺を後にすると、 「日本でここだけ まゆ玉うどん」の看板が目に入ってきました。 「まゆ玉うどん?」とは思いながら、ものは試しと入ってみました。 「もり陣」の「まゆ玉うどん」 一見すると釜玉うどんですが、うどんには蚕の繭が入っているそうです。 (ご主人がわざわざ繭を持ってきてくれました) さすがにシルク入りのうどんだけあって、艶々とした滑らかさがありました。 ところで、分福茶釜とタヌキの話ですが、茂林寺から東武伊勢崎線の茂林寺前駅に至る間、看板に物語がイラスト入りで描かれていました。 ある時貧しい男が罠にかかったタヌキを見付たのですが、可哀そうに思って放してやることにしました。 恩に思ったタヌキは、その夜に男のところを訪ね、茶釜に化けて自分を売ってお金にするように薦めました。 男は茂林寺の和尚さんにタヌキの化けた茶釜を売ったのですが、茶釜を火にかけると熱くてたまらず、タヌキは半分だけ元の姿に戻ったそうです。 タヌキはそのままの姿で男のところへ戻り、茶釜を背負ったタヌキのまま、見世物興業を行って稼ぎ、男に恩返しをしたとのことでした。 何となく思い出したのですが、そんな美談だったとは・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[城跡と史跡(群馬編)] カテゴリの最新記事
|