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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(群馬編)
徳川家康の関東入封時の榊原康政が10万石で入り、徳川綱吉(後に5代将軍)の時に25万石と、上野国(群馬県)最大の規模を誇ったのが館林藩で、その城下町の中心にあったのが館林城です。
現在となっては、城下町・城郭ともにほとんど面影はありませんが、「紺屋町」や「鷹匠町」など、城下町を偲ばせる地名が残り、所々に往時の姿が復元されていました。 復元された長屋門と旧宅 復元された館林藩士旧宅 鷹匠町にあったものを移築・復元したものです。 城郭を見る時、普段はあまり城下町に気を留めないのですが、榊原康政が基礎を築いた館林の城下町だけに、すこしゆっくりと見て回ることにしました。 紺屋町付近の登城道 城下町と城郭の境目は、片側が町屋だったことから「片町」と呼ばれ、片町に大手門が置かれていました。 大手門付近 大手門から城内を歩いて行くと、(といっても普通に住宅地の中を歩いていただけですが)「土橋門」の櫓門が見えてきました。 土橋門(外側) 土橋門からが三の丸となり、土橋門の内側に枡形になっていました。 土橋門(内側) 三の丸は高い土塁で囲まれていたようで、周りの土塁も一部残っています。 土塁は見事なのですが、三の丸の曲輪そのものは見る影もなく、文化会館の敷地に変わっていました。 ここが城の曲輪だと、考える方に無理があるような気がします。 三の丸からは二の丸が続いていたと思われるのですが、こちらは城郭の遺構すら残っていません。 現在の二の丸は市役所の敷地となって、「日本一暑いまち館林市暑さ対策本部」が置かれていました。 外を歩く人をほとんど見かけないのも納得です。 二の丸は見る影もなかったのですが、それでも二の丸から本丸方向を眺めると、遠くに土塁のようなものが見えていました。 本丸には三層の天守や櫓が置かれていたそうですが、現在は別の建物が建っているようです。 そして本丸跡に行ってみると、近代的な「向井千秋記念こども科学館」が建っていました。 こうなると如何ともし難い状況ですが、やはり榊原康政や徳川綱吉よりも、館林出身の宇宙飛行士、向井さんの方に軍配が上がるようです。 そのこども科学館の南側には、先ほど見えていた土塁が残っていました。 本丸の土塁 館林城の本丸の南東側、ちょうど搦め手方向には城沼と呼ばれる大きな沼が広がっているのですが、その城沼と本丸の間にもいくつか曲輪が置かれていたようです。 その曲輪の1つである「八幡曲輪」には、館林城の守護神として八幡宮が祀られており、現在も八幡宮が鎮座しています。 八幡宮 明治になってからは最後の藩主であった秋元氏の所有地となり、現在も秋元氏の別宅が保存されていました。 本丸の周辺を探ってみると、他にも館林城の遺構があり、しかもそれが無造作に置かれていました。 二の丸・三の丸から出土した石垣石 田山花袋の旧宅敷地内に置かれていたのですが、ということは田山花袋も館林城跡に居宅を構えていたことなります。 その田山花袋の旧宅敷地には、「浜田藩中奉納手水場鉢」も野ざらしのまま置かれていました。 1836年に当時の館林城主であった松平斉厚が石見国浜田藩に移封になった時、松平家の家臣たちが館林在任中の感謝の意を表すため、館林城下の八坂神社に奉納したものと言われています。 手水鉢の側面に家臣たちの名前が刻まれている貴重なものですが、もう少しマシな保存の方法はないものでしょうか。 館林城の搦め手にあたる本丸の南東側には、周囲5kmもある大きな「城沼」が広がっています。 城沼 この天然の要害があれば、ここに城を築くのも納得ですが、実はここに縄張りを定めたのはキツネだったと言われています。 館林城は、1528年に赤井照光によって築城されたと言われています。 当時大袋城主であった赤井照光が、殺されそうになった子狐を救ったところ、次の夜に老翁が現われて、子狐を救った礼を述べると共に、大袋から要害堅固な館林に移るよう薦めたそうです。 さらには次の夜に老狐が現われ、館林への道案内をするとともに、尾を曳いて縄張りを定めたと言われています。 館林城は別名「尾曳城」とも呼ばれますが、このキツネが縄張りをしたという言い伝えに由来したもので、赤井照光は城内の一角に「稲荷曲輪」を設け、尾曳稲荷神社を祀りました。 尾曳稲荷神社 戦国時代になると、赤井氏は上杉謙信に降伏開城し、館林城も上杉氏の支配下となりました。 その後も甲斐武田氏・小田原北条氏との三つ巴の争いを経て、最後は小田原北条氏の支配下となっています。 そして1590年の豊臣秀吉による小田原の役の時、豊臣方の大谷吉継・石田三成の軍勢の前に降伏し、館林城は開城されました。 小田原の役の後、徳川家康が関東に入封してくると、館林城には榊原康政が10万石で入城してきました。 榊原康政と言えば、徳川四天王に数えられた功臣ですが、「なんでまたこの人が館林に?」という気がしないでもありません。 (井伊直政が11万石で同じ上野国箕輪城(後に高崎城)に入ったり、本多忠勝が10万石で上総国大多喜城に入ったりというのも、同感ではありますが) いずれにしても上野国に榊原康政・井伊直政の2人を配することで、十分北への抑えになったことでしょう。 関ヶ原の戦い後、榊原康政には水戸25万石への加増・移封の話があったそうです。 しかしながら榊原康政は、館林城の方が江戸城に近いこと、そして関ヶ原の戦いでは功績がなかったことを理由に、この申出を断ったと言われています。 その代わりに榊原康政は城下町の整備に勤め、堤防工事や日光脇往還の拡充など、館林の発展の基礎を造りました。 そして1661年には、徳川家光の4男である徳川綱吉が、25万石で館林城に入りました。 1680年に4代将軍徳川家綱の跡を継いで第5代将軍となり、館林藩は一躍将軍を輩出した藩となっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010/08/17 10:16:48 AM
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