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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(群馬編)
館林城の南東に広がる城沼のほとり、館林城から約2km離れたところに善導寺があります。
元々は館林の城下町にあり、現在の館林駅付近にあったのですが、駅前の再開発によって城下町からは遠く離れた城沼のほとりに移転してきました。 館林駅前の旧善導寺の跡地には、本堂前にあった井戸が残っています。 「竜の井」 館林城の城沼とつながっているとも言われています。 善導寺の歴史は古く、和銅元年(708年)に行基によって開創されたそうです。 戦国時代末期の1590年、榊原康政が10万石で館林城に入城すると、善導寺も現在の館林駅前に移転し、以後榊原家の菩提寺となりました。 善導寺の境内には、榊原康政の墓所があります。 その隣には長男である大須賀忠政(後に横須賀城主)、三男榊原康勝の墓所が並んでいました。 榊原康政は1548年に三河国上野郷(愛知県豊川市)に生まれ、12歳で徳川家康の家臣となりました。 1563年に三河の一向一揆で初陣し、功績を挙げたことから家康の一字をもらい、小平太康政を名乗るようになりました。 以後は姉川の戦い(織田・徳川連合軍VS浅井・朝倉連合軍)、三方ヶ原の戦い(徳川家康VS武田信玄)、長篠の戦い(織田・徳川連合軍VS武田勝頼)、小牧・長久手の戦い(徳川家康VS豊臣秀吉)など、歴戦で功績を挙げて酒井忠次・本多忠勝・井伊直政と共に徳川四天王に数えられています。 特に小牧・長久手の戦いでは、あちらこちらに豊臣秀吉を挑発する高札を立て、これに激怒した豊臣秀吉は榊原康政に10万石の懸賞を懸けたほどでした。 徳川家康の功績はすなわち三河武士団の功績でもあるのですが、他の三河武士団と同じく、晩年は不遇の中で過ごしていました。 そして故郷の三河の地を踏むことなく、自らが築いた館林で生涯を閉じています。 盟友であった本多忠勝は、榊原康政の訃報を聞いて館林に駆け付け、榊原康政の亡骸を抱き起して号泣したと言われています。 榊原康政肖像画 三河武士のやかた家康館(愛知・岡崎)にて お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/05 04:36:32 PM
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