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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
室町時代の山口は京都を凌ぐほどの繁栄ぶりで、「西の京」とも呼ばれた経済・文化の中心地でありました。
当時は日本一とも言われる経済基盤を持つ大内氏の庇護の下、多くの文化人も山口を訪れて、「大内文化」と呼ばれたほどです。 栄華を誇った大内氏と西の京山口でしたが、大内義隆の時代に勃発した「大寧寺の変」によって全てが変わったと言っても過言ではないかも知れません。 1551年に大内氏の重臣である陶隆房(晴賢)が謀反を起こし、大内氏館のある山口へと侵攻してきました。 陶隆房軍1万人に対して大内義隆軍は2千人しかおらず、陶軍の包囲の前に大内義隆は長門の大寧寺に逃れ、自刃して最期を遂げています。 大寧寺の山門跡 大寧寺の奥には、その大内義隆主従の墓所がありました。 大内義隆の介錯をつとめた冷泉隆豊も大寧寺の経蔵で自刃し、自らのはらわたを天井に投げつけたと言われています。 経蔵跡 大寧寺の変で大内氏は事実上滅亡したのですが、西の京山口も戦火で焼失したために文化財の数々を失ったばかりか、大内氏の下で行われていた貿易が途絶えたために日本の経済にも混乱をきたしました。 政治・文化・経済とあらゆるものを変えた大寧寺の変でしたが、陶隆房の謀反の背景には文治派と武断派の対立があったと言われています。 尼子晴久の本拠地である月山富田城の包囲戦で敗退して以来、大内義隆は政治への関心が薄れ、政務を文治派に任せるようになりました。 文治派と対立する武断派に陶隆房がおり、陶隆房も讒言に乗って謀反を起こしたとされています。 大寧寺の変の後、陶隆房は大友氏から当主を迎え、大内義長が大内氏の当主となりました。 しかしながら1555年の厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就によって討たれると、大内義長も毛利元就の侵攻の前に功山寺で自害し、名実ともに大内氏は滅亡しています。 大寧寺は毛利氏によって再建され、大内義隆の墓所の他にも江戸時代の長州藩重臣の墓所が並んでいました。 その墓所の1つで「えっ?」と思ったのですが、案内板には「上杉憲実墓所」とあります。 江戸時代の長州藩重臣の墓所で上杉氏はなかなか結びつかないのですが、関東管領の上杉憲実と長門大寧寺が結びつけるのはもっと困難で、「上杉憲実と同姓同名の人がいたのか」と思ったほどです。 150年にわたって続いた関東の戦国時代を紐解いていくと、室町幕府の足利将軍家と鎌倉公方足利氏の対立に行き当たり、その京都と鎌倉の調整に奔走していたのが関東管領上杉憲実でした。 結局は永享の乱が勃発して長い戦国の時代へと突入していくのですが、その中で上杉憲実は何度も政界から身を引きつつも呼び戻され、つねに戦乱の中に身を置いていました。 ついに上杉憲実は出家をして政界から逃れたのですが、行きついた先が大内氏の山口だったようです。 その後の北条氏の台頭と、北条氏に対抗する武田・上杉・佐竹・里見の各氏が繰り広げた関東の戦国絵巻を思うと、長門にいながら関東の戦国城跡の数々が思い出されました。 防長のみならず中国地方の歴史を変えた大寧寺、ここに関東管領の墓所があることに対しては、不思議な縁を感じます。 関連の記事 大内氏舘→こちら 厳島古戦場→こちら 平井城(群馬)→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/09/30 11:44:46 PM
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