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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
山陽本線の駅で言うと、西から防府・富海・戸田・福川と続きます。
防府には宮市宿、富海には富海宿、福川には福川宿と、それぞれ旧山陽道の宿場町に山陽本線の駅があるのですが、戸田だけは宿場がなかったようです。 (山口県には難読の駅が多く、防府は「ほうふ」、富海は「とのみ」、戸田は「へた」、福川は「ふくがわ」となります) それでも富海宿と福川宿の間にある戸田(へた)の旧山陽道沿いにも宿場町のような街並みが残っており、富海や福川などの宿場町と同じような賑わいだったかも知れません。 戸田付近の旧山陽道 街並みからすると、宿場町間の「間之宿」だったようにも思えます。 街道沿いの旧家もさることながら、横の辻地蔵は享保年間の建立と言うことで、1716年~1735年のものと言うことになります。 戸田に限ったことではないのですが、旧山陽道では江戸時代後期~明治時代初期に造られたと思われる旧家がゴロゴロと数多く残っており、今も普通に人が住んでいるのが驚きです。 旧東海道でこんな旧家が残っていたならば、市町村が買い上げて文化財として保存していることかと思います。 旧山陽道でそれをやったならば、人が住んでいる家をことごとく買い上げなけれなならず、すぐに財政破綻することでしょう。 戸田市観音 創建は元禄年間だそうで、1688年から1703年と言うことになります。 おそらく当時のまま残っていることでしょうが、こうも旧山陽道ばかり見ているとさほど驚かなくなりました。 名前は忘れましたが戸田には大きな神社があり、旧街道に面した参道入口に戊辰戦争の凱旋記念碑がありました。 最近のようで150年も前の話なのですが、戸田から奥州に出征した兵士が凱旋できたのは氏神様のお蔭とあるようです。 「官軍」と言えば聞こえはいいものですが、存外実際の歴史はこんなものかも知れません。 旧東海道では宿場町の出入口に「見附」があって、時には枡形も残っていたりして、「ここからここまでが宿場町ですよ」と、割とはっきりしていました。 福川宿に限らず旧山陽道では、街道の跡がはっきりと残っているにも関わらず、宿場町の出入口がよくわかりません。 そもそも東海道と違って山陽道の位置づけは「脇街道」なので、東海道ほど厳格にする必要もなかったのかも知れませんが、今のところ関所すらもありませんでした。 街道を整備したのは徳川家康ですが、薩摩の島津と長州の毛利を仮想敵国としていた割に、街道そのものは無防備な感じがします。 福川宿にしても、いつの間にか福川宿の中心部に入っていたような感じでした。 福川宿本陣 それでも本陣付近には、いかにも旧街道らしい雰囲気が残っていました。 酒蔵 現代の建物と向かい合う旧家 こういう風景が旧街道らしくていいと思います。 ところで東海道・山陽道と宿場町を見てきて、一つ共通していることがあることに気づきました。 「○○屋さん」は今も残っているようで、その「○○屋さん」は三つあるように思います。 関連の記事 若山城→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/10/11 07:12:02 PM
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