中仙道鴻巣宿(埼玉・鴻巣市)その2
人形の町鴻巣宿の旧中仙道を行くと、勝願寺というお寺に行き着きました。山門をくぐると廟所があり、牧野康成を始めとする牧野家の墓所とのことです。牧野康成と鴻巣がつながらず、別人かと思ったほどでしたが、三河の牧野康成でした。徳川家康の関東入封後、直参として鴻巣付近を治めていたようです。(石高は5,000石と大名クラスではなく、知名度の割りに小身なのも意外な感じでした)せっかくなので牧野康成の墓所をお参りしたかったのですが、霊廟の門が閉ざされていたのでかないませんでした。山門の先には仁王門があり、その先に本堂がありました。仁王門本堂勝願時は中山道の街道めぐりで偶然立ち寄った寺院でもあり、本堂を参詣した後はさっさと街道筋に戻ろうと思っていました。たまたま本堂の左手の先に目を向けると、宝塔が3基あってそれぞれに解説版が建っていました。「誰の墓所だろう?」と一応近づいてみたのですが、「真田小松姫」の名前を見て、思わず立ちすくんだほどでした。草津温泉に向かう途中、小松姫はこの鴻巣で亡くなったのですが、意外なところに本多平八郎忠勝ゆかりの地がありました。ところで、小松姫の父親である本多平八郎忠勝とはこんな人です。2009年11月大多喜城決してデフォルメではなく、本人も納得の上とのことです。ちなみに本多忠勝の第一子である小松姫については、こんなエピソードがあります。ある日徳川家臣団に鍋料理がふるまわれ、その鍋はアンコウ鍋でした。鍋の材料となったアンコウを見て声を上げたのが、本多平八郎忠勝の親友で、同じ徳川四天王の1人榊原康政です。「平八の愛娘ならば、わしには姪も同然ぞ。それを土鍋で煮炊きしおるとは」と、厨房に駆け込んで行ったとか。榊原康政は文才もさることながら毒舌の人でもあるのですが、実際に小松姫は父親似ではなく容姿端麗だったようです。それでも小松姫の気性は父親ゆずりで、良妻賢母ぶりがうかがえるエピソードもあります。関ヶ原の合戦前、小松姫の夫の真田信之は徳川方につき、真田信之の父である真田昌幸と信之の弟真田信繁(幸村)は石田三成方につき、敵味方に分かれることとなりました。真田昌幸は、孫の顔を一目見ようと、小松姫が留守を務める沼田城を訪れたのですが、いくら義父でも敵方となった以上、小松姫は孫との面会を許しませんでした。それでも城を離れた場所で密かに真田昌幸に孫を引き合わせ、あの真田昌幸を感心させているほどで、この辺りはさすが本多忠勝の娘といったところでしょうか。小松姫の墓所の隣には、本多忠勝と真田昌幸の孫にあたる真田信重の墓所がありました。さらにその隣にも宝塔があるのですが、これまた鴻巣とはつながらない意外な人でした。仙石秀久の墓所ススキ原で有名な箱根の仙石原は、小田原の役での功績を称えて、この人の名前に由来しています。上田、沼田、小諸などの地名を見るにつけ、ようやく中仙道を実感できたように思います。この先は上州、そして信州へと続いています。以前鴻巣に住んでいたという人によると、旧中仙道は「キュウナカ」と呼ばれ、行田あたりまでは見どころが多いとのことでした。実際に鴻巣宿キュウナカには旧家が並び、街道風情が漂っていると思います。鴻巣駅前の少し先に地名の由来となった鴻神社があり、印象深かった鴻巣宿の街道めぐりも、今回はここで終了することにしました。次の宿場町である熊谷宿までは、なぜか4里6町(約16.4km)もあり、さすがに今回はここで終了です。