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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
防府は三田尻と呼ばれており、昔から瀬戸内海に面した天然の良港となっていました。
現在の三田尻港 関ヶ原の戦い後に毛利輝元は防長二カ国に減封となりましたが、新たに築城するにあたっては三田尻・山口・萩の3か所が築城地の候補となっていました。 築城地の選定にあたっては江戸幕府の許可が必要なのですが、毛利輝元の本命候補は周防三田尻でした。 第一希望から第三希望までを幕府に申請して、通例では第一希望が叶うことはほとんどなく、第三希望が許可されるようになっていました。 そこで毛利氏は本命の三田尻を第三希望とし、不便な萩を第一希望として申請したのですが、この時ばかりは第一希望が通って萩が本城となっています。 徳川家康にしてみれば、仮想敵国である毛利氏を萩に追いやることができて「してやったり」でしょうが、毛利氏にしてみれば完全に徳川家康に「してやられた」ことになります。 毛利氏は三田尻港の整備を進め、三田尻港を毛利水軍(旧村上水軍)の本拠地とすると共に、「防長の三白」すなわち米・塩・紙の産業を振興させました。 三田尻には入浜式の塩田が造られ、日本全国に輸出されていたそうです。 復元された塩田跡 毛利氏の萩本藩と山陽側の三田尻(防府)を連絡する目的で萩往還の街道が整備され、毛利氏にとっては山陽道と同じくらいに重要な街道だったと思われます。 長さ12里(約53km)、道幅2間(約4m)の本街道なみの大きな道で、現在は萩往還を国道262号線が踏襲しています。 三田尻には藩の公館である「御茶屋」が置かれ、宮市宿で山陽道から分岐した萩往還の終点となっていました。 御茶屋跡 1863年の「八月十八日の政変」では、三条実美以下七公卿が三田尻の御茶屋に滞在していたそうです。 三田尻には毛利水軍(旧村上水軍)の拠点も置かれ、江戸時代中期までは三田尻から海路で江戸へ参勤していました。 船着場のあった御船蔵跡 関連の記事 萩城→こちら 山陽道~宮市宿→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/10/03 02:47:24 PM
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