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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
高森宿から玖珂(くが)宿までの距離は18町(約2km)しかなく、呼坂宿~今市宿間と同じくらいの短さです。
玖珂宿から先、岩国方面に向かう間には山陽道最大の難所と言われる欽明路峠が控えているため、峠道の手前に宿場町を造ったのかと思われます。 高森宿からは岩徳線沿いに平坦な道を辿るため、すぐに玖珂宿の宿場町に入った感じでした。 玖珂宿の宿場町 旅館の看板がありますが、旅籠屋の名残でしょうか。 ところで玖珂宿に限らず、旧山陽道の街道沿いには天満宮(天神社)をよく見かけます。 防府天満宮のみならず、菅原道真の天神様への崇敬を感じました。 玖珂宿の菅原神社 元々は江戸時代の大庄屋である岡氏の屋敷があったところです。 岡氏は戦国時代に玖珂に本拠地を置いていた杉氏の末裔でしたが、天災や疫病が続くのは毛利元就との戦いで非業の最期を遂げた杉氏のたたりであると、屋敷に天満宮を祀ったことが始まりです。 菅原神社前の旧山陽道 立派な屋敷が並んでいました。 玖珂宿の本陣は残っていませんが、玖珂小学校の前が本陣だったようです 本陣付近の旧山陽道 玖珂宿の宿場町を抜けて欽明路峠に入る手前には、名前の由来ともなった欽明寺があります。 欽明寺 欽明天皇(在位540年~571年)の御幸の際、ここで休息をとったことから欽明寺と名付けられました。 昭和15年の火災によって伽藍が焼失し、昭和17年に周防武田氏16代の武田甲斐人氏によって、観音堂が再建されています。 観音像は行基の作と伝えられていたようです。 加藤清正を祀る堂宇もあったそうですが、意味がよくわかりません。 欽明寺のすぐ近くには、その周防源氏武田氏の屋敷跡がありました。 1540年に安芸武田氏が毛利元就の援助で欽明路に居を構えたのが始まりで、江戸時代の1818年に武田宗左衛門が稽古屋敷を設け、明治の小学校の前身となったそうです。 門以外の建物は現存していませんが、門の向こう広がる敷地には石垣が一部残り、武田氏の墓所が並んでいました。 欽明寺からは、いよいよ山陽道最大の難所とも言われる欽明路峠へと入って行きます。 欽明寺前の旧山陽道 奈良時代の730年には、大宰府の少典である山口忌寸若麻呂が、欽明路を越えた時に次のように読んでいます。 周防なる磐國山を超えむ日も 手向けよくせよ 荒しその道 中峠付近 もちろん舗装道は後になって造られたものですが、それでも急な峠道でした。 現在徳山方面と岩国方面の連絡として、鉄道ではJR岩徳線と山陽新幹線、車道では県道15号線「欽明路道路」と旧山陽道が欽明路峠を通っています。 旧山陽道だけが峠越えの道となっており、後のルートはいずれもトンネル経由となっています。 山陽自動車道の欽明路トンネル ところで徳山方面と岩国方面を結ぶルートのうち、国道2号線と山陽本線が欽明寺峠を迂回するルートとなっています。 国道2号線は欽明寺の手前で急に向きを変えて迂回していますが、国道2号線の開通当初はトンネル技術が発達していなかったためです。 それでも欽明路峠を通るルートが最も近いため、国道2号線のバイパスとして県道15号線「欽明路道路」が有料道路として1972年に開通しました。 県道が国道のバイパスとなるのも妙な感じですが、国道2号線よりも欽明路道路の利用の方が多く、予定よりも早く無料開放されています。 欽明寺道路には長さ1.1kmほどの欽明寺トンネルがありますが、鉄道は勾配が苦手なので、車道よりもトンネルが長くなっています JR岩徳線の欽明寺隧道が約3km、山陽新幹線の新欽明寺トンネルは約7kmの長さがあります。 山陽本線は全く関係ない瀬戸内海沿いを通っていますが、元々は最短ルートを行く岩徳線が山陽本線となっていました。 複線電化にあたっては、欽明寺トンネルをもう一本掘る必要があるため、海沿いを迂回する柳井線を複線電化させて山陽本線に昇格させた経緯があります。 お蔭で岩徳線の方は最短ルートにも関わらず、幹線から降格となり、未だに単線非電化のままです。 欽明寺峠は東の京都方面に向かう下りの勾配が急となっており、車道もアスファルトではなくコンクリートの滑り止めがついているほどでした。 京都方面から西へ向かう旅人は急勾配を登ることになるので、峠を越えて玖珂宿で一息ついたことと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/10/10 08:59:43 PM
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