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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
周防国(山口県)と安芸国(広島県)の県境に架かる両国橋を渡ると、山陽道も西国街道と名前を変えることとなりました。
両国橋(広島側から見たところ) 山陽道は山口県内の呼び方で、正式には西国街道と呼ぶそうです。 県境を流れる小瀬川も、広島県側では木野川と呼び方が変わります。 西国街道となった山陽道は、国境を越えても木野川(小瀬川)沿いを通っていました。 幕末の第二次長州征討では、長州軍と幕府軍が木野川を挟んだ戦いの舞台でもあります。 ちなみに山口県では「長州征討」や「長州征伐」とは呼ばず、「四境戦争」や「四境の役」と呼びます。 四境とは、小倉口(関門海峡を挟んで九州との境)、大島口(瀬戸内海を挟んで四国との境)、石州口(島根県との境)、芸州口(広島県との境)のことです。 幕府軍は四境で長州軍を包囲しましたが、いずれの戦いも長州軍の圧倒的優位に終わりました。 そのうちの芸州口の戦いの舞台となったのが木野川で、1866年に周防国側に長州軍、安芸国側に幕府軍が対峙しました。 幕府軍の先鋒を務めるのは彦根藩主井伊直憲、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の次男です。 JR大竹駅前にある芸州口戦いの図 木野川を挟んで右側(広島側)が幕府軍、左側(山口側)が長州軍で、中央の2騎は幕府の使番です。 幕府軍の先鋒を井伊氏が務めるあたりは、なんとも中世的な感じがするのですが、兵装も甲冑姿などの前近代的なものだったようです。 一方の長州藩ですが、第一次長州征伐では降伏して不戦敗に終わったものの、この時は高杉晋作のクーデターによって藩の体制も変わっていました。 奇兵隊などの民兵組織が編成され、大村益次郎の主導による近代的な用兵に変わっていました。 芸州口の戦いでは、幕府軍は長州軍の5倍の3万人で布陣しましたが、長州軍の近代兵器と用兵の前に敗北を喫しました。 (結果は勝海舟の調停により、休戦・引き分けとされました) 幕府軍が布陣した「苦の坂」の西国街道 長州遊撃軍は苦の坂の背後にも侵攻し、幕府軍の退路を断ちました。 苦の坂から先はほとんど通行不可能だったので、迂回して大竹の市内へと回って行きました。 西国街道は旧家の並ぶ小方を通り、亀居城へと続いていました。 小方の街並み 玖波宿の宿場町は、四境戦争で焼失してしまい、旧街道の街並みはほとんど残っていませんでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/10/12 10:35:05 PM
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