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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
白砂と青松が続く虹ケ浜海岸と室積海岸の間には、製鉄所や工場の立ち並ぶ工業地帯があります。
戦前まで光海軍工廠のあった場所で、戦後になって民間企業の工業用地として利用されるようになりました。 島田川の対岸から見た光海軍工廠跡 (製鉄所の施設が見えています) 光海軍工廠は昭和15年10月1日に、当時の熊毛郡周南町に開設されました。 光海軍工廠の開設を機に、周南町から光町へと名称が変わり、現在の光市へと続いています。 かつて海軍工廠の正門があった場所には今も「正門町」の名称が残り、現在は民間工場の入口となっていました。 製薬会社の工場ですが、現在も海軍工廠の建物が一部使われています。 海軍工廠のすぐ西側には島田川の河口があり、河口付近からはかつての「艦船ポンド」の跡を見ることができました。 かつての海軍工廠の目の前には周防灘が広がっていますが、呉港から出撃した連合艦隊の集結地でもあったそうです。 光海軍工廠には「回天」の基地も置かれ、回天の出撃28回/148基のうち12回が光基地から行われたとの記録があるそうです。 光市文化センターには、訓練用の回天の頭部が展示してありました。 終戦後光市内の海岸に埋没していたものを、掘り起こして保存したものです。 広島県呉市の大和ミュージアムに展示されている「回天」 光海軍工廠は終戦前日の昭和20年8月14日に、マリアナ諸島より飛来したB29の編隊157機によって爆撃され、738名の犠牲者を出すと共に工廠施設の約72%が損壊しました。 光市文化センターにあるアメリカ軍の航空写真 「HIKARI NAVAL ARSENAL」と書かれ、「TARGET NO」や緯度・軽度と共に、写真上に爆撃目標が円形で記されています。 目標は4ヶ所あり、主に本部庁舎や工場が目標とされていました。 また、7月に書かれたアメリカ軍のレポートも展示されており、「日本の最も重要な工廠の一つ」と書かれた上で、「この目標の破壊は、日本にとって最も新しくかつ大きなプラントを失うことを意味し、日本の戦争遂行能力に深刻な打撃となろう」と記されていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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