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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
涙松で萩の城下町を見送ると、萩往還は次の宿場町である明木(あけらぎ)市へと続いていきます。
国道262号線と秋吉台方面への県道32号線が分岐するあたりに明木市の宿場町があります。 宿場町のすぐそばをには明木川が流れ、宿場町の入口には明木橋が架かっていたのですが、川の氾濫によって流失してしまったそうです。 橋桁の跡が残っていると、地元の方が教えてくれました。 現在の明木橋は約1km下流(萩より)に架かっており、橋のたもとには吉田松陰の詩碑が建っていました。 吉田松陰は伊豆の下田で黒船に乗って密航することを企てましたが、結局は発覚して萩へ護送されることとなりました。 送還される途中で明木橋を渡った時に詠んだ詩です。 「少年有所志 題柱學馬卿 今日檻與返 是我書錦行」 (吉田松陰はただものではなかったようです) 明木市の旧街道沿いには今も旧家が残っており、宿場町の面影をよく残していました。 宿場町には民営の本陣ではなく、公営の御茶屋が置かれいたようで、「乳母の茶屋」と名付けられた建物がありました。 乳母の茶屋の命名は後世になってからのようですが、敷地の所有者である佐々木家の先祖に毛利氏の乳母だった人がおり、毛利家から御茶屋を下賜されたとの言い伝えがあるそうです。 江戸時代末期の記録によると、明木市の総家数は73軒で、うち20軒が商人で残り53軒が馬持ちの宿人夫だったそうです。 物流の事務を行う目代家が置かれ、馬30頭と人夫19人が常設されていたとのことです。 目代家と馬継所のあった付近 萩往還に限ったことではないのですが、旧山陽道など長州藩の宿場町では必ずと言っていいほど酒蔵があるように思います。 明木市でも瀧口酒造の酒蔵がありました。 明木市からは赤間関(下関)へ向かう赤間関街道が分岐しており、分岐点の道標が残っていました。 赤間関街道との分岐点 高杉晋作率いる奇兵隊はむしろこちらをよく使ったのかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/12/06 10:26:23 PM
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