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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(香川・愛媛・徳島・高知編)
愛媛県のほぼ中央部、松山市と宇和島市の間に大洲市があり、江戸時代には大洲藩が置かれていました。
現在残る大洲城の城郭は、江戸時代になってから築かれた近世城郭です。 二の丸大手口門である櫓下門跡 当時は水堀を渡った先に門があり、今は枡形がわずかに残っていました。 二の丸跡 二の丸には御殿があったようで、礎石の跡が残っていました。 現在残る近世城郭は築城の名手である藤堂高虎によって築かれたものです。 藤堂高虎らしく直線的な高石垣ですが、石垣の孕みが気になるところです。 本丸には台所櫓と高欄櫓が現存しており、二つの櫓の間に建つ天守は復元ながらも、伝統的な木造建築で内部にわたって詳細に復元されたものです。 平成16年に完成した復元天守ですが、天守の雛型と古写真が残っていたため、外観のみならず天守内部の復元も可能となりました。 天守古写真 外観写真が残っているだけでなく、雛型が残っていることは奇跡に近いかも知れません。 天守雛型 大洲は元々大津と呼ばれており、大洲城も鎌倉時代の1331年に伊予国守護である宇都宮豊房が大津城を築いたことに始まります。 以後戦国時代の1568年に宇都宮氏が河野・毛利連合軍に降伏するまで、代々宇都宮氏の本拠地となっていました。 河野氏の支配下となった後、豊臣秀吉の四国平定によって小早川隆景が伊予に入国し、大洲城も小早川隆景の支配下となりました。 1595年には藤堂高虎が宇和島城に入って本拠地としましたが、後に宇和島城には城代を置いて、大洲城を居城としました。 現在の近世城郭の縄張りも、藤堂高虎によるものです。 江戸時代に入った1609年には脇坂安治が淡路島洲本城から入城し、天守を始めとする建造物を建築しました。 脇坂氏の後に加藤貞泰(光泰の子)が大洲に移封となり、初代大洲藩の藩主となっています。 以後は代々加藤氏が大洲藩主を務め、明治維新を迎えています。 大洲城の天守は明治の廃城令では破却されなかったものの、老朽化を理由に1888年に解体されました。 そして平成16年に大洲市制50周年の記念事業として、現在の天守が復元されています。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 04:23:55 AM
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