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パクス・ジャポニカ Vol.2

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2012/02/13
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テーマ:城跡めぐり(1258)
しまなみ海道を今治北ICで下り、今治市内を南に向かった海岸近くに今治城があります。

現在は本丸部分の高石垣が残っており、周囲には広い水堀が巡らされていました。
当時は海水を引き入れた水堀だったようで、中津城(大分)・高松城(香川)と並んで日本三大水城の1つに数えられています。

今治城東 (500x375).jpg
直線的な高石垣と幅のある水堀が、築城の名手である藤堂高虎流の築城法です。


今治城 西 (500x375).jpg





今治城の本丸は方形の曲輪なのですが、東西南北に向いておらず磁方位に対して45度傾いた格好になっていました。

櫓門の鉄御門がある方を大手と見るのが妥当なのでしょうが、背後の海側しかも鬼門である北東側に大手があることになります。
今治城大手 (500x375).jpg
鉄御門までは土橋が架けられており、やはりこちらが大手のようです。

さらには南東(巽)と並んで吉方位とされる北西(乾)側は、北東の鬼門の方角のように石垣の隅が欠けた縄張りとなっていました。
今治城北西 (500x375).jpg
北西側の入隅
江戸城では鬼門の方角、ちょうど気象庁の前あたりがこんな感じです。


今治城開城400年の記念事業として鉄御門の復元が開始され、平成19年に復元が完了しました。

鉄御門を挟んで城内と城外に枡形が復元されており、枡形の石垣も復元されていました。
今治城鉄御門 (500x375).jpg
櫓門形式の鉄御門

今治城鉄御門2 (500x375).jpg
鉄御門の枡形(城外)
鉄御門の再建にあたっては、幕末期の古写真や文献を参考にしており、かなり忠実に再建されているそうです。

今治城鉄御門3 (500x375).jpg
枡形(城内)


本丸内の建造物は明治の廃城令によって破却されており、現在は櫓が再建されていました。
今治城多聞櫓と武具櫓 (500x375).jpg
北側の武具櫓と多聞櫓(城外から見たところ)

今治城武具櫓 (500x375).jpg
武具櫓(城内から見たところ)

今治城山里櫓 (500x375).jpg
西側にある山里櫓(城外から見たところ)

今治城山里櫓2 (500x375).jpg
山里櫓(城内から見たところ)


今治城本丸多聞櫓 (500x375).jpg
多聞櫓(城内から見たところ)


本丸にある天守も再建されたもので、元々の今治城の天守は丹波亀山城に移築されたと伝えれています。
今治城天守2 (500x375).jpg
今治城天守の資料は残っておらず、こちらは亀山城を基にして建てられた模擬天守です。

城跡を見て回る中で、最も幻滅なのが史実に基づかない模擬天守だと思います。
「お城」=「天守」となるのはわかる気もしますが、現存する建造物や縄張からこそ築城主の意匠を感じるのではないでしょうか。

藤堂高虎の築城を感じるのは天守ではなく、このトリッキーな縄張と石垣の妙技だと思います。



今治城は1602年に着工され、1604年に完成しました。
たった2年でこれだけの城が出来上がるのも驚きですが、当時の城郭は現在の10倍の広さがあったそうです。

関ヶ原の戦いの功績で、宇和島城から12万石加増の20万石で入封した藤堂高虎でしたが、他の築城に忙しかったようで、渡邊勘兵衛を築城奉行として今治城を築城しています。

今治城藤堂高虎像 (500x375).jpg
藤堂高虎像

藤堂高虎は1608年に再び加増となって伊勢に移封となりますが、この時に今治城の天守が移築されたのは伊賀上野城ではなく、徳川家康の意を察して大阪の抑えとなる丹波亀山城だったそうです。

藤堂高虎の人物像については語るまでもありませんが、同じ築城の名手と並び称される加藤清正とは正反対かも知れません。


加藤清正の築城にも藤堂高虎の築城にも、戦闘拠点としての機能的な縄張りを感じますが、大きな違いがあるように思います。

石垣だけでも加藤清正の曲線と藤堂高虎の直線の違いはあるのですが、加藤清正の築城には武骨な中に美しさがあり、藤堂高虎の築城には武骨な中にしたたかさを感じると言えば、やはり言いすぎでしょうか。

(財)日本城郭協会「日本100名城」





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最終更新日  2018/03/22 09:39:59 PM
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