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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
松下村塾(松陰神社)や吉田松陰生誕地のある萩市東部の山麓にあるのが東光寺で、長州藩主であった毛利氏の菩提寺でもあります。
藩主の菩提寺と言えば封建制度の象徴のような感じですが、後にその封建制度を打破するきっかけとなる場所がすぐ近くにあるというのも、皮肉な感じがします。 東光寺は長州藩第3代の毛利吉就によって、1631年に開山されました 東光寺総門 扁額にある「護国山」が東光寺の山号で、1693年の創建当時のものとされています。 江戸時代のものが現存しているだけで第一級の文化財だと思うのですが、山口に来てからはさほど珍しくもなくなってきました。 鐘楼 1694年に第4代の毛利吉広によって寄進されたとされています。 三門 江戸時代の終わり頃、1812年に長州藩第10代の毛利斉煕によって建てられたもので、東光寺の中では比較的新しい建造物です。 そして本堂がこちら 大雄宝殿 1698年に第4代藩主の毛利吉広によって建立されたものです。 東光寺の境内奥にあるのが長州藩毛利氏の墓所ですが、その手前には第一次長州征伐で切腹となった毛利氏家臣の墓所があります。 坂本龍馬の仲介による薩長同盟が成立する前、1864年の禁門の変(蛤御門の変)で長州藩が朝敵とされた第一次長州征伐の時、事件の責任をとって切腹した国司信濃・益田右衛門介・福原越後の三家老を始めとする廟所です。 禁門の変では久坂玄瑞などの有能な長州藩士を失いましたが、歴史を振り返ってみるとここも近代日本の前の尊い犠牲でもす。 ちなみにこの後で高杉晋作のクーデターが起こり、坂本龍馬の仲介による薩長同盟も成立した後、聞いて呆れる「第二次長州征伐」では幕府軍を壊滅させ、倒幕に向けて世の中が動いていきました。 そして毛利氏の墓所です。 おびただしい灯篭の数ですが、長州藩士にとって藩主とはいかなる存在だったのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/03/18 03:33:17 PM
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