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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
歴史はその時その時の偶然の積み重ねで、後から振り返ってみて必然性が出てくるものだと思っています。
源頼朝に始まる封建制度に終止符を打ち、中世・近世日本から近代日本へと歴史が変わった明治維新にしても、崩れ落ちそうな積み木を積んでいくような偶然の積み重ねではなかったでしょうか。 ところで「第一次長州征伐」と「第二次長州征伐」という歴史上の出来事があり、1864年と翌年の1865年の1年の間に起こった出来事です。 いずれも幕府が長州藩を「征伐」しようとしたことですが、第一次と第二次では同じ長州藩でも全く相手が違っており、結果も全く異なるものでした。 第一次長州征伐の時、長州藩の実権を握っていたのは攘夷派などの急進派ではなく、幕府に従順な「俗論派」(保守派)でした。 さらには唯一攘夷を決行した下関戦争(四国連合艦隊砲撃の報復)の結果、長州藩にはもはや幕府と戦う力もなく、この時は長州藩の完全な不戦敗に終わっています。 ところが翌年の「第二次長州征伐」(山口での呼び名は「四境戦争」)では、高杉晋作や大村益次郎の前に幕府軍は敗北を喫し、やがて日本は倒幕へと動き始めました。 「征夷大将軍」という武力の長を戴く武力政権が、その家来である1つの藩に逆に征伐されたとあっては、「もはや世も末」といったところでしょうか。 (もちろんその過程には西郷隆盛や坂本龍馬など、雄藩の動きがあったればこそですが、これも積み木を積むような偶然の積み重ねだと思います) 第二次長州征伐(四境戦争)での倒幕の立役者が高杉晋作ですが、高杉晋作には幕府の前に戦う相手がいました。 その戦うべき相手が長州藩の「俗論派」(保守派)で、高杉晋作がとった行動がクーデター(功山寺の挙兵)でした。 高杉晋作率いる奇兵隊などの諸隊と、長州藩俗論派の間で激戦となったのが「大田・絵堂の戦役」で、こちらでは明治維新最初の戦いとも言われています。 旧美東町大田は秋吉台カルスト台地の東側、ちょうど山陽と山陰の中間点付近にあり、大田川のほとりにある神社「金麗社」に本陣が置かれました。 松下村塾では高杉晋作の弟分である伊藤俊輔(後に伊藤博文)や山縣狂介(後に山県有朋)も、高杉晋作と行動を共にして、この金麗社で作戦会議を行っていたそうです。 萩から旧山陽道船木宿へと抜ける街道の要衝にあり、長登銅山のすぐ東側の呑水峠では、諸隊と長州藩俗論派の激戦となりました。 長登銅山と呑水峠の方向 結果として高杉晋作や伊藤俊輔(博文)、山縣狂介(有朋)はこの戦いに勝利し、萩へ進軍していきました。 そして長州藩を倒幕へと統一し、第二次長州征伐での勝利、倒幕へと続いていきます。 この大田が「明治維新発祥の地」とも言われますが、この戦いで敗北していれば明治維新も違うものになっていたでしょうし、時代は下って内閣総理大臣伊藤博文や同じく山縣有朋もいなかったことでしょう。 十一番目の志士 下 文春文庫 新装版 / 司馬遼太郎 シバリョウタロウ 【文庫】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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