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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
本州の最西端、山口県下関市の南西部は、関門海峡よりもさらに狭い小瀬戸と呼ばれる海峡(水路?)で隔たれています。
最大でも200mほどの運河のような水路ですが、その先は島になっていて「彦島」と呼ばれています。 フグの競りで知られる南風泊市場も彦島にあり、巌流島も彦島の一部となっています。 火の山公園から見た彦島(左の端の方です) 彦島から見た火の山と壇ノ浦の関門海峡 この本州の最先端にくっついたような小さな彦島ですが、歴史の成り行きによっては外国となっていた可能性がありました。 1863年5月10日、朝廷から江戸幕府に下された攘夷決行の期日に、長州藩は関門海峡を航行するイギリス・フランス・アメリカ・オランダの船舶を砲撃し、下関戦争が勃発しました。 その後の連合国軍の報復によって長州藩は敗退し、砲撃から3ヶ月後の8月になって、長州藩と連合国軍との間で、講和を結ぶこととなっています。 その連合国との講和に臨んだ長州藩の全権大使が「宍戸刑部」でした。 大役を担っていたにもかかわらず、宍戸刑部の名前は歴史に登場してきませんが、本名は高杉晋、通訳を務めたのが松下村塾の弟弟子である伊藤俊輔(博文)です。 「宍戸刑部」の高杉晋作は、連合国軍の要求する講和条件を悉く受け入れました。 その条件は砲台の撤去のみならず、関門海峡の自由航行、貿易の自由化、薪水の補給、船員の上陸許可、さらには賠償金300万ドルの支払まで含まれています。 (賠償金の支払については、「幕府の命令に従った」との立場で全て幕府に請求を向け、イギリスもこれを信じていました) かなり一方的な講和条約でしたが、高杉晋作が唯一拒否した条件が「彦島の租借」でした。 下関戦争の2年前、高杉晋作は上海の渡航して欧米列強による実情を見ていたこともあるでしょうが、後に彦島沖を航行した伊藤博文は、「あの時高杉晋作が租借問題をうやむやにしていなかったら、彦島は香港に下関は九龍半島になっていただろう」と回想したと言われています。 彦島の「老ノ山公園」から見た響灘の日本海 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/05/13 09:45:14 PM
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