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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(大分編)
どこかで聞いたことのあるようなネーミングですが、「青の洞門」は大分県を代表する景勝地「耶馬溪」にある名勝で、耶馬溪は大沼(北海道)・三保の松原(静岡)と並んで、「新日本三景」の1つにも数えられています。
耶馬溪と一口に言っても範囲は広く、山国川の上流から下流に到るまで、本耶馬渓・深耶馬渓・裏耶馬渓・ 奥耶馬渓・椎屋耶馬渓など多岐に渡っています。 「耶馬溪に行くには、一体どこに行けばいいのだろう?」と、それほど範囲が広くて見所の多い渓谷美です。 山国川の上流部に広がるのが本耶馬渓で、さらに本耶馬溪を代表する競秀峰の絶壁の麓に「青の洞門」があります。 山国川と青の洞門 ちなみに煙が上がっているのは山火事ではなく、野焼きです。 (大分の風物詩でしょうか、あちらこちらで野焼きの煙を見ました) さすがは「新日本三景」の1つとあって、耶馬渓を代表する競秀峰は、「一体なぜ?」と圧倒されるほどの自然美でした。 この競秀峰の頂上部分は元々個人所有だったようで、明治になって売りに出されたことがありました。 この時、「もし分別のない人の手に渡って樹木が伐採された場合、景勝を損なう」と危機感を持ったのが、同じ中津出身の福沢諭吉です。 福沢諭吉は故郷の名勝を守るため、個人の資金で競秀峰一帯を買い取ったそうです。 ところで「青の洞門」の話になりますが、江戸時代に造られた全長342mのトンネルです。 ノミと槌だけで岩盤を貫いて造られたもので、完成までには30年を要しました。 洞門が出来る前、通行人は鎖だけで結ばれた難所を渡る必要があり、ここで命を落とす人も多くあったそうです。 そこでこの地に洞門を造ろうと思い立ったのが、諸国漫遊の末に立ち寄った禅海和尚でした。 禅海和尚像 道徳の教科書か何かで聞いたことのある話でしたが、実は禅海和尚が1人で造ったものではなく、托鉢で得た資金で人夫を雇って造ったそうです。 今も残る手掘りの洞門(一部) 禅海和尚は洞門の通行料を徴していたようで、青の洞門をもって「日本最初の有料道路」と言われる所以です。 現在の洞門はおそらくドリルか何かで拡幅されたものでしょうが、普通に舗装道路が通っていました。 一方通行なので、双方の出入口に交互信号がありました。 ところで「青の洞門」の名前ですが、由来の方はよくわかりませんでした。 後世になってイタリアの「青の洞窟」を お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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