|
テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
全国に93ヶ所ある「重要伝統的建造物群保存地区」のうち、山口県では5ヶ所が選定され、そのうちの4ヶ所が萩市にあります。
萩の城下町は江戸時代の地図がそのまま使えると言われ、路面こそアスファルトで舗装されているものの、鍵曲がりやT字路・袋小路など、江戸時代の町割りを現在も見ることができます。 萩城のみならず城下町全体が防衛拠点として機能しており、萩城三の丸の南側にある「平安古(ひやこ)」地区も、江戸時代の町割りが残る「重要伝統的建造物保存地区」の1つに選ばれています。 平安古の城下町では現代の住宅も数多く見られますが、所々に旧家や土塀、石垣などが普通に残っていました。 萩城三の丸へ続く路地 石垣の一部が残り、路地の向こうには萩城詰丸の指月山が見えています。 江戸時代から残ると思われる長屋門 (今も人が住んでいるようでした) 複雑に折れ曲がった見通しの悪い路地にも、江戸時代の町割りの名残を見ることができます。 平安古の「鍵(かい)曲がり」 土塀に囲まれた路地を行くと、足音がよく響きました。 これも防衛上の工夫の1つなのでしょうか。 現代の住宅地の中も路地が複雑に折れ曲がっており、この辺りにも江戸時代の町割りの跡を見ることができました。 萩の城下町には維新の立役者たちの史跡が数多くありますが、平安古にも幕末の長州で名を馳せた人の史跡がありました。 天保の改革で藩政改革を行った村田清風の別宅 久坂玄瑞生誕地 吉田松陰の門下生では高杉晋作・吉田稔麿・入江九一と共に四天王の1人に数えられ、高杉晋作と共に松下村塾の双璧を成した人物です。 1864年禁門の変で負傷して自刃しましたが、存命していれば倒幕の立役者となっていたことでしょう。 現在は三条実美による追悼の碑が建っています。 平安古の城下町だけでも防衛上の配慮が数多く見られました。 関ヶ原の戦い後に120万石から36万石に大幅減封となって萩に本拠地を移した時から、すでに長州は倒幕に向けて動いていたのかも知れません。 関連の記事 萩城(2011年5月)→こちら 萩城城下町(2011年7月)→こちら(古萩地区中心です) 「重要伝統的建造物群保存地区」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[城跡と史跡(山口編)] カテゴリの最新記事
|