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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
かつては「回天坂」と呼ばれた坂の上には当時兵舎が置かれており、現在は「回天記念館」が建てられています。
神社の参道を思わせるような通路の両脇には「烈士碑」、回天戦没者の名前と出身地が刻まれたプレートが並んでいました。 悪化する戦局を打開するべく、黒木博司大尉と仁科関夫中尉が考案したのが、魚雷に人が搭乗して操縦する兵器でした。 (後に黒木大尉は回天訓練中に事故死、仁科中尉は回天搭乗で戦死) 当初海軍はこの発想には否定的で、日露戦争でも名を馳せた永野修身軍令部総長にいたっては、口頭で「それはいかん」と明言して却下したそうです。 それでも黒木大尉の血書の嘆願書などの働きかけによって、「搭乗員の脱出装置なしでは採用しない」との条件付で、「人間魚雷」の試作が開始されました。 結局脱出装置は搭載されないまま製作が進められ、1944年8月になし崩し的に正式採用され、「天を回らし、戦局を逆転させる」願いから「回天」と命名されています。 回天の復元模型 従来の魚雷を搭乗用に改造したものです。 魚雷を人が操縦すると言ってもリアルには理解できませんが、ミサイルの命中度を上げるために、人が操縦すると言ったらどういう兵器になるでしょうか。 映画「出口のない海」でも出てきた回天を搭載した一等輸送艦の模型 大津島には回天の訓練基地が造られ、終戦までに延べ1,375名の搭乗員が訓練を受けました。 その年齢は17歳から28歳、大多数は20歳前後だったそうです。 回天の戦没者は搭乗員・整備員を合わせて145名、回天記念館ではその回天の歴史の紹介と、戦没者の遺品の数々が展示されていました。 訓練の合間に描いたスケッチなど 寄せ書きや楠木正成の湊川の戦い「七生報国」の鉢巻など。 当ブログのプロフィール画像にも利用しているように、楠木正成は武将として最も尊敬する人物ですが、実はこの歴史観には違和感を感じています。 それでも戦局が悪化する中、日本を守るべく自ら回天の搭乗員となった方々の思いには、敬服するばかりでした。 回天搭乗員が残した遺書も展示されており、その思いの数々には目頭が熱くなってきます。 土井秀夫海軍中尉が両親に宛てた遺書 松田光雄二等飛曹(没後少尉)の遺書 上西徳英海軍一等飛行兵曹(没後少尉)が家族に宛てた遺書 昭和20年8月11日沖縄南東海域にて戦死(享年18歳) お父さん お父さんの鬚は痛かったです。 お母さん 情けは人のためならず 和ちゃん 私は海です 青い静かな海は常の私 逆巻く涛は怒れる私の顔 敏子 すくすくと伸びよ 兄さんはいつでもお前を見てゐるぞ 忠範よ、最愛の弟よ 日本男児は御盾となれ 他に残すことなし ここでご紹介できるのはほんの一部ですが、その歴史と共に遺した思いは忘れてならないものだと思います。 関連の記事 大津島~回天の島→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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