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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
梅雨の中休みで天候もまずまずとあって、「少し歩いてみるか」と、向かった先は下関です。
スタート地点は唐戸の亀山八幡宮、ここは下関から京都までの山陽道(西国街道)の起点でもありました。 鳥居には昭和八年の刻印がありました。 鳥居脇に建つ山陽道起点の道標 旧山陽道(現在の国道9号線) 関門海峡を間近に見る亀山八幡宮ですが、幕末には長州藩によって砲台が置かれました。 朝廷からの攘夷決行の期日である1863年5月10日、長州藩は関門海峡を通過するイギリス・アメリカ・フランス・オランダの艦船に砲撃を加え、下関戦争が勃発しました。 亀山神宮境内の砲台もその1つで、ここから関門海峡に向けて砲撃が始まりました。 砲撃の指揮を執ったのは久坂玄瑞、吉田松陰の松下村塾門下生では四天王の1人に数えられ、松下村塾では高杉晋作のライバルでもありました。 亀山八幡宮境内からみた関門海峡 すぐ向かい側には唐戸市場とカモンワーフがありますが、当時はもっと近くに海岸線があったことと思います。 高杉晋作と同じく、久坂玄瑞も明治維新を見ることなくこの世を去りましたが、もしも存命ならば明治政府の要職を担っていたかも知れません。 関門海峡を航行する船舶と汽笛を聞きながら、久坂玄瑞と同じ地に立っていることは、史跡めぐりの醍醐味を感じると共に、とても感慨深いものがあります。 ところで亀山八幡宮には吉田松陰の松下村塾門下生に関するエピソードがもう1つあります。 亀山神社の境内には茶屋である「お亀茶屋」があったのですが、そこで働いていた芸者が木田梅子で、後の内閣総理大臣伊藤博文の夫人、伊藤梅子です。 高杉晋作の功山寺の挙兵によるクーデターの後、高杉晋作と行動を共にした伊藤俊輔(博文)も、長州藩俗論派(保守派)によって命を狙われる身となりました。 亀山八幡宮境内に逃げ込んだ伊藤博文を匿ったのが木田梅子でした、 その伊藤博文とゆかりが深いのが、境内にある「世界一のふくの像」です。 「下関に『世界一』がなければ、他にどこにあるのだろう?」と言ったところですが、豊臣秀吉がふぐの食用を禁止して以来、300年経ってふぐの食用を解禁したのが伊藤博文でした。 ちなみにふぐ料理の公許第一号は、亀山八幡宮から旧山陽道を東に200mほど行ったところにある「春帆楼」、日清戦争後の下関条約の交渉が行われた場所でもあります。 幕末・明治初期の舞台となった亀山八幡宮ですが、その歴史は古く、下関戦争から1,000年ほど遡った859年に創建されました。 ひがしに 行教が宇佐神宮から京都の石清水へ八幡宮を勧進するにあたり、途中で停泊した亀山に宮を設けたのが始まりとされています。 (八幡宮としては、石清水八幡宮よりも古いことになります) 亀山八幡宮社殿 亀山八幡宮は長門国三ノ宮でもあります。 東に500ほど行った場所には壇ノ浦と赤間神宮がありますが、社格も歴史も亀山神宮の方に軍配があがるかも知れません。 関連の記事 唐戸市場とカモンワーフ→こちら 山陽道~赤間関→こちら 春帆楼(日清講和記念館)→こちら 赤間神宮→こちら 壇ノ浦古戦場→こちら 【送料無料】新・平家物語 全16巻セット お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/06/17 08:41:08 PM
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