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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(山口編)
幕末の長州萩で吉田松陰を輩出したことは、その後の長州の歴史を決定付けたと言っても過言ではないかも知れません。
その萩にあって、生誕地や松下村塾と並んで、吉田松陰にゆかりの深い場所が野山獄です。 野山獄跡 野山獄は萩城から東へ約1km、橋本川と松本川の三角州に形成された萩城城下町の中にあります。 元々は長州藩士の屋敷のあった場所だったのですが、とある事件によって長州藩の牢獄となりました。 1645年9月17日の夜、長州藩士野山六右衛門の屋敷に、同じく長州藩士で西隣に住む岩倉孫兵衛が酒に酔って切り込み、野山氏の家族を殺傷する事件が起こりました。 岩倉孫兵衛は死刑となりましたが、野山氏も取りつぶしとなり、その屋敷跡に作られたのが野山獄です。 野山氏にしてみれば、とばっちりもいいところかも知れませんが、切り込んだ岩倉氏の屋敷跡も牢獄となり、道を挟んで野山獄と岩倉獄が並ぶことになりました。 道を挟んだ向かい側の岩倉獄跡 投獄者の身分によって上牢と下牢に分けられ、野山獄が上牢で岩倉獄が下牢だったようです。 吉田松陰はこの野山獄に2回投獄されていますが、1回目は1854年に日米和親条約締結のため、再びペリーが江戸に来航した時でした。 金子重輔と共にポーハッタン号に乗り込んで密航を企てたのですが失敗、自首して江戸の伝馬町牢屋敷に投獄された後、長州に送還されて野山獄に投獄され、金子重輔は岩倉獄に投獄されています。 吉田松陰生誕地にある吉田松陰像 金子重輔と共に下田沖のペリー艦隊を見つめている像です。 この時、吉田松陰は獄中で囚人に講義を行い、獄中の記録を「幽囚録」に残しました。 そして1855年に出獄となった後、松下村塾を開いています。 2回目の投獄は1858年のことで、幕府が勅許なしに日米修好通商条約を締結したことから、老中である間部詮勝暗殺を企てた容疑でした。 井伊直弼による安政の大獄もあって、江戸の伝馬町牢屋敷に送還され、老中暗殺計画を自供したことが決定的となりました。 吉田松陰関連の記事 生誕地→こちら 松下村塾(松陰神社)→こちら 伝馬町牢屋敷→こちら 小塚原回向院→こちら 松陰神社(世田谷)→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/07/03 12:55:31 AM
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