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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(大阪・兵庫編)
久々の城跡めぐり、播州は赤穂にやって来ました。
難読地名の多い西日本にあって、赤穂を普通に「あこう」と読めるのは、やはり忠臣蔵のお陰でしょうか。 ところで「忠臣蔵」の由来ですが、「忠臣がたくさんいる蔵」とする説もあるようで、そうなると浅野長矩(内匠頭)の居城であり、大石良雄(内蔵助)が城下に屋敷を構える赤穂城こそが「忠臣蔵」ということになるでしょうか。 三の丸にある大手門と隅櫓(復元) 大手門 大手隅櫓と外堀 実は赤穂藩は5万石しかないのですが、大手門をや石垣を見る限りでは、30万石の城かと思うほどの城郭です。 さらに目を見張ったのは、その縄張りでした。 本丸と二ノ丸部分は輪郭式になっており、さらに本丸の周囲は入隅と出隅が複雑に重なった形をしています。 まるで五稜郭の稜堡を思わせるような構造ですが、完全に戦闘を意識した縄張りとなっていました。 このような輪郭式の縄張りを見たのは駿府城と大坂城くらいですが、いずれも幕府直轄の天下普請で築かれた城で、なぜ5万石の外様大名である浅野氏がここまでの城郭を築いたのか、不思議に思うところです。 大手門を入ると枡形になっており、右に90度折れたかと思うと、今度は左に180度曲げさせられるといった具合でした。 大手門内枡形で右へ90度 途中には番所もありました。 さらに左へ180度方向転換 切込接ぎの石垣といい、江戸城に雰囲気がよく似ているような気がします。 大手門の先の三ノ丸には赤穂藩士の屋敷があったようで、忠臣蔵ゆかりの赤穂義士の屋敷もここにありました。 大石良雄(内蔵助)邸長屋門 片岡長房(源五右衛門)邸跡 切腹する浅野内匠頭に最後に面会できたのが片岡源五右衛門でしたが、面と向かって顔を合わせることは許されず、人ごみにまぎれて主従で目を合わせたのが最後でした。 声を掛けることも憚られたようで、忠臣蔵のドラマなどにある「殿、片岡源五右衛門にございます」と声を掛けることもなかったようです。 吉良邸の討入では表門部隊として、十文字槍とともに突入して行きました。 近藤正憲(源八)邸長屋門 甲州流軍学者で赤穂藩士に軍学を教授したと言われています。 (吉良邸討入には高齢のため参加せず) 大石良重(頼母助)屋敷門 三ノ丸ではなく二ノ丸にありますが、大石内蔵助の大叔父にあたり赤穂藩の家老職にありました。 山鹿素行が赤穂に流されて来た時は、約8年間ここに住んで山鹿流兵法を教授していたそうです。 その二ノ丸の縄張りにあたっては、山鹿素行の意見によって手直しが施されました。 二ノ丸門跡と内堀 本丸には天守台もあるようですが、実際には財政難のために建設されなかったそうです。 本丸表門 朝早く着きすぎて、まだ中に入れませんでした。 本丸内堀 三ノ丸には大手門の他に門が2つあり、それぞれ「清水門」・「塩屋門」と名付けられています。 清水門跡 浅野内匠頭の刃傷事件の後、城を明け渡した大石内蔵助が退城したのもこの門でした。 塩屋門跡 赤穂城の搦め手にあり、浅野内匠頭の刃傷事件を知らせる急使が入ったのもこの門で、赤穂城明け渡し後に幕府方の軍勢が入城したのもこの門です。 赤穂城は江戸時代に入ってから築かれた近世城郭で、1645年に浅野長直(内匠頭の祖父)が常陸笠間から入封して築城を開始しました。 築城にあたっては、甲州流軍学者である近藤正純が設計、13年の歳月をかけて完成しています。 5万石でこれだけの城郭を建設したために財政難に陥り、財政を補うために始まった施策が塩田開発でした。 これが功を奏して、現在も「赤穂の塩」として知られています。 赤穂といえば忠臣蔵ですが、実際に舞台を訪れてみると、過去の事件も遠い話ではないように思えてきました。 元禄赤穂事件関連の記事 江戸城(松の廊下跡)→こちら 本所両国(吉良邸跡)→こちら 泉岳寺→こちら (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/18 12:14:23 AM
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